佐村河内守氏と新垣隆氏の話題。いろんな角度からの見方が出来て興味深い。体を張って表現するタイプと、理論を突き詰めて静かに表現するタイプ、この両輪が上手く回ってCDが売れていたのだと思う。どちらか、だけでは理解されなかった。少なくとも今の日本では。どちらかが悪者で、どちらかがイイモノでもなく、二つの資質が合わさっている事に価値があった。マスコミが取り上げる様な面白かったり悲しかったりする派手目のストーリーは、ノリやすいのかも知れないけど、ものつくりのレイヤーとは違う。本質とはかけ離れている軸の話だと思う。
デザイン業界で言うと、ひとつの広告を造り上げるには、クリエイティブディレクターがいて、アートディレクターがいて、イラストレーターや写真家、コピーライターなどがいる。ここで、出来上がった成果物を、クリエイティブディレクターが「俺の作品だ」と世の中で言いふらしても、同じチーム内では誰も傷つかないと思う。職能として仕事に関わる場合のメンタリティって、名前を出す事じゃないから。実際、僕も匿名性の高い仕事は沢山しているし、クレジットされなくても、全く気にしない。どちらかと言えばその方が良かったりする。職能として社会に貢献するときに、名前が必要とされる場合とされない場合があるのは解っている。そこは、自分の感覚ではなくて、相手側の意向に合わせる。ウソはつかないけれども。
僕が印象深かったのは、新垣氏が「共犯者だ」と言い切っていた部分。僕の憶測かも知れないけど、彼の音楽に傾けてきた情熱からすれば「共犯者」という言葉だけで彼の中の何かが壊れてしまうことはないと思う。先ほど書いた様に、名前を出すか出さないか以上に、音楽を作ること自体に誇りを持っているから。新垣氏からすると、もっと真剣に、音楽を聴いて欲しいという叫びだったのかもしれない。佐村河内守氏も似た様なことを感じながら、演じざるを得ない状況だったのかも。出自やルックス、表面的なことに騙されずに、真剣に音楽を聴いて欲しい。二人からのそうしたメッセージを受け取った一件だった。