アジア大戦は避けられない?そんなムードになってきたのですが、実際はどうなんでしょうか。震災以降「声を上げることの意味」が深まってきている様に思います。反原発の運動も、なんだかんだ言って、実を結んでいると思います。原発は再稼働せず、夏の電力不足を乗り切ろうとしています。マンガ「はだしのゲン」の閲覧をめぐってもご承知の通りの流れ。原爆、戦争、残酷描写・・・そういった表現に対して制限をかける人が、最も危ないと、大衆の側が生理的に理解しているんですね。また鹿児島の身近な問題で言えば、伊藤知事が「ドルフィンポート跡に体育館を造ると言い出した問題」「上海線維持のために県職員を派遣した問題」「市立病院の人事を巡る問題」・・・これらがリコール運動にまで繋がり始めています。これが震災前の鹿児島だったら、もしかして見て見ぬフリのオトナが多かったのではと推測します。小さな問題であれ大きな問題であれ「それは違うんじゃないのか」と、真摯な態度で伝え続けていれば、それが大きなうねりとなって世の中を動かしていけると、みんなどこかで思い始めています。安倍政権になってしまったのは残念ですが、それがどんな政権であれ、監視し、賛成出来るところは褒め讃え、明らかに違う部分については違う違うと、ひたすら意思表明する。これが最終的には戦争を避ける手段なのではないかと思っています。黙っているのが一番怖い。そういう意味では、震災後、個人単位では確実にかわりつつあるのだと、希望を持っています。
Monthly: 2013年8月
希望・・・
「有明海むつごろうラーメン」
先日行われたK-ADCでも話題だった「有明海むつごろうラーメン」。佐賀に出かけた際、武雄の物産館にてゲットしました。それにしても独特のパッケージ、ですねえ。むつごろう自体が魚の中でも「変わりモノ」のイメージが強いから・・・ラーメンとしても異色ということでいいのではないでしょうか。
しばらくは箱に入った状態で保存しておいたのですが、さきほど思い切って封を開け、食べました〜!醤油味、ということでしたが、さっぱり系という訳ではなく、何やら、随分とコクがあって美味しかったです。ムツゴロウのダシが効いているという事なんでしょう。老舗の魚問屋「夜明茶屋」が手掛けた商品だそうです。
鹿児島の食とデザイン展
8月26日から9月1日までマルヤガーデンズ4F「garden4」で開催されている「鹿児島の食とデザイン展」。私・オーテマも「とあるお菓子」の紹介をさせて頂いております。随分前に本ブログに掲載された記事がベースになっているのですが、こんなカタチで日の目を見るとは。また、それとは別に、私がデザインした「ソマモンド」も紹介されています。
今・・・鹿児島でデザインが流行っているらしい・・・と耳にする様になりました。東京では既にデザインのイベントは頭打ち状態なのか何なのか、・・・デフォルト状態になっていると思われます。鹿児島では、まだまだ、これからデザインの価値を理解して頂く活動が必要です。食とデザインが関わるとどのようになるのか?・・・是非とも確かめて頂きたいと思います。
先日、足を運んできましたが楽しい展覧会場でしたよ〜。
モザイク部分は是非会場で確かめてくださいね〜
Canon EF 40mm f/2.8 USM
コンデジが壊れてしまったので、たまにしか使わないEOS Kiss X4をなるべく鞄に入れて持ち歩くことを決意・・・。しかし・・・これまで所有しているレンズはどれも体積があって、機動力には欠けていたんです。いろいろと調べて行くうちに、パンケーキレンズと呼ばれるタイプが便利なのかと気がつきポチリ・・・昨日到着。その名の通り、薄い。見た目も、ちょっと変わった一眼レフに見えます。レンズキットに付属している18-55mmよりも(これも、マウント部が欠けていて修理に出すか迷い中)、随分印象が軽くなりました。これなら、何とか持ち運べそうです。40mmの単焦点、これも変わっていますね。標準より若干引いた感じ・・・。撮りやすい画角だと思います。
製品ページ。
甲子園饅頭〜
牛津町に立ち寄った目的は、ムツゴロウを見るためだったのですが、場所が解らずに困っていたところ・・・この看板が目に入りました。肉まん、あんまん・・・!このキャラ・・・どこかで見たことがあるようなないような。佐々木マキ風でもありますね。真夏でしたが、肉まんとあんまんを二つずつ買って、ムツゴロウ観察が出来る場所を訪ねたのでした。コンビニで売っている肉まんとは違い、小さくて食べやすかったです〜。
お店の正面から写真を撮るのを忘れていたのですが、後にネット検索で「甲子園饅頭」というお店ということが解りました。
牛津町の交通安全キャラ・・・
佐賀県立宇宙科学館に行く途中で立ち寄った牛津町。こんな人形が至る所にありました。全部撮影したら、微妙に顔が違うんだろうな〜。
タワーレコード、またもや閉店へ
2007年3月31日、天文館(南九州一の繁華街)の真ん中・タカプラにあったタワーレコードが閉店した(本ブログの記事)。それ以降、僕の中で天文館の価値は下がってしまった・・・。。そして2009年、イオン鹿児島ショッピングモールにタワーレコードが復活した際には、本当に嬉しかった(本ブログの記事)。そして今年の8月21日、またもや閉店・・・。この6年で二度の撤退。もう、来てくれないだろうな・・・リアル店舗。結局のところ、ダウンロードが主体になってパッケージメディアとしての音楽の意味がなくなってしまったということですね。それ以前に音楽を楽しむ文化が鹿児島で成熟しきれなかったのか。いずれにしても悲しい事態です。流れとしては、当然かなり前から議論になっていたんですが、リアル店舗で音楽を探るという行為は、特別なものだと思うんです。本屋さんでも、ウロウロするだけで世の中の様子が何となく解ったり、買う予定がなかった運命の本に出会ったり。お店という空間でないと実現できないアレコレは必ずある筈。本当に残念です・・・。まあ、そんな状況でもミュージシャンは減らないと思いますし、新しい時代の音楽の楽しみ方はあるとは思います・・・と、一応言っておきます。
母の誕生日(後)
二世の会員になり多くを見聞し、良書の紹介、著名人の講演の内容を「二世の会通信」や「柳絮」等々で勉強させていただいた。多感な頃体験した満州の思い出は、楽しかったことは当たり前であり、今回のテーマである「次の世代に伝えたいこと」として、やはり戦争の悲惨さの方へとペンが向いた。子供にも話したことのないことばかりである、生前の父が、満州のことを聞くと機嫌が悪くなるので禁口となっていたが満州国の為政者としての複雑な思いが去来していたのではないかと今は理解できる気がしている。戦争を知らない世代に体験を伝えるkとは大変難しいことである。でも残された者の務めであり、今は親としての立場から言うならば、思い出のある遺言になると思う。私が父の気持ちを少し分かるまでには年月を要した。同じく、いつか子供たちも分かる時が来る。栗原氏のような若者が顕彰してくださっている。母は子供を守るため早朝から汽車に乗り食糧の買い出しに行くのが日課のようであった。当時は石炭車であったから、真っ黒にすけて、夕方疲労困憊して大きなリュックごと土間に倒れるように仰向けになっていた。私は井戸の水くみや、ごえもん風呂を沸かしたり精一杯手伝った。母の帰る時間には弟を連れて、一刻も早く母に会いたいという思いで近道をして母の姿を探したものである。この頃父はまだソ連にいた。日本が少し落ち着いてきた頃、母の言った忘れられない言葉がある。
「人間は生きるために食べるのではなく、食べるために生きている」と。最後に当時流行していた母の歌声を懐かしみつつ、その歌詞を書いて終わりとする。
1.太郎よ、お前は、よい子供
丈夫で大きく強くなれ
お前がおおきくなる頃は
日本も大きくなっている
おまえは、私を越して行け
2.花子よ、お前は、よい子供
丈夫で綺麗に淑やかに
お前がお嫁に行く頃は
日本も大きくなっている
おまえは、私を越して行け
3.太郎よ花子よ、日本の子
丈夫で大きく強くなれ
みんなが大きくなる頃は
日本も大きくなったいる
子供よ、おとなを越して行け
苦労の多かった母は六十歳で他界した。戦後六十七年、今の日本をどう感じているか聞いてみたい思い切なるものがある、
平成二十四年七月十三日 梅雨最中
大寺順子
母の誕生日(前)
母のことをブログで書くことは滅多にないのですが・・・もしかすると一度もなかったかも知れません。
今日、77歳の誕生日を迎えたので、昨年、母がまとめた戦争体験の手記を転載しようと思います。大同学院二世の会が発行している会報「柳絮」(りゅうじょ)に寄せた記事になります。昨日は終戦記念日、徐々に戦争の記憶が忘れ去られて行く中で貴重な手記だと思います。ちなみに、父は台湾生まれ、母は満州生まれです。文中、差別表現と思われる箇所がありますが、当時の空気をそのまま感じて頂けると思い原文のまま紹介します。ご理解頂きたいと思います。
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終戦と同時に流浪の民となり、野宿をしたり、難民収容所に入れられたり、貨車に詰め込まれたりされて、一年がかりでコロ島に着いた。米国の貨物船58号LSTに乗船してようやく祖国の土を踏むと同時に頭が白くなるまでDDTの粉をかけられた。その強烈な匂いまで思い出す。
私たちが帰ってきた時のためにと、実家を一人で守っていた祖母が、白米のご飯を用意してあった。でも一日だけの夢に終わった。私は小学四年生、弟は一年生、妹は引揚げの途中、三歳で満州の土となった。敗戦の昭和20年7月に生を受けた弟は、まだ首もすわらぬ赤ん坊である。ロスケのマンドリン(銃)の監視の下、母親の乳首にしがみついていた。弟と私はタスキ掛けにしていた飯盒の米や、大豆をかじって命を繋いでいた。アリの行列さながらの哀れな敗戦国民の姿で、あてどもなく広野を歩かされた。日没と共に地べたにくずおれ、日出と共に立ち上がり目的も分からず母親の手を、兄弟の手を必死で握り締め、時にロスケに追い立てられるように歩き出す。それからは無蓋貨車に詰め込まれ、横になることもできず幾日過ぎただろうか。
阿鼻叫喚、地獄絵図さながらであった。命を失した人は情容赦もなく、その動く貨車から投げ捨てられた。時々乱暴に「ガタン」と揺れて止まると、どこからともなく中国人のマントウ売りが現れた。元気な人は貨車から飛び降りて買っていた。コロ島から乗船した時は、いよいよ祖国が近くなったと、うれしい気持ちがしたが、ブリキの食器にドロドロしたかゆ状のものが何日も続き、泣くに泣けない思いをした。ここでも毎日水葬のドラの音が響いていた。「ああ又か。」と、人間らしい感情がなかったようだ。子供ながら艱難辛苦に耐えたものだが、幼少の頃の体験は、良きにつけ悪しきにつけ、本来の性格にないモノの見方が身につくようである。やっと祖国に帰ったが、国内も食糧難、日常品の物不足等々、引揚者には過酷な運命が待っていた。農家ではなかったので母(36歳)は毎日のように買い出しに行き、祖母の着物が一枚二枚と減っていったようだ。少しばかりの米やイモと交換していたのだ。父は四年後、抑留生活から開放され帰ってきたが、結核を患っていた。奥座敷に一人で起居し、母が父の為に精一杯の栄養食を膳にのせて運んでいた。子供は近づけなかった。食器も別々に洗い熱湯消毒をしていた。
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(後)に続く