
あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
午年・・・今年はトシオトコであります。「不惑の40代」などと世間では言われている様ですが、まだまだ、迷い、模索の日々です。
そんな訳で、通常のイラスト業務は年末年始も営業しております。
新春スペシャルとして(想定読者数・20人)、これまでの半生を振り返りたいと思います。(「む展の人々30年」という冊子からの転載です。)
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大寺聡の半生
国立二小のソフトボール選抜チームでピッチャーとして活躍。決勝まで勝ち残る腕前だった。中1の冬まではバレーボール部に所属するスポーツ少年。本当は漫画家になりたかったのに「自分を・偽って・いた」(ポーン♬ピアノの音)。放課後、部活で費やされる膨大な時間を勿体ないと感じる様になり先生に泣きながら退部を申し出る。「大寺、部活やめるってよ!」とごく少数が大騒ぎ。それ以降はひたすらクリエイティブ活動。同じ帰宅部仲間とラジオドラマを制作したり、同人誌を作ったりと、自由な時間〜そして創造の楽しさを知る。三鷹高校時代は漫画研究同好会の会長に就任。校内に落ちている空き瓶を換金し活動資金にしていた。この頃の日本のマンガ、アニメについての知識は殆どなく、小学校6年の時にカルチャーショックを受けた映画「スター・ウォーズ」以降はその手のSF感覚に取り憑かれ雑誌「スターログ」などを読む毎日。長岡秀星やシド・ミードなどのSFアートが絵の原風景と言える。ところが美大受験を志す頃からポップアートや日比野克彦らの芸大旋風などの感覚も脳内でミックスされていく。ムサビ時代はバブル後期で世の中の浮かれ方には疑問を感じていたが、デザインや広告のブームに助けられていた面もある。そんな中、絵を描く仲間たちと「就職したら人生終わり」という思想の下、「就職しない活動」をしていた。フジテレビでアルバイトをしながら営業営業また営業。ムサビで卒業制作をしていた1989年の大晦日に父が他界。故郷を捨て都会に定住することの意味についてあれこれと考える。28歳の時に独立、数年の準備期間を経て、活動拠点を東京から本籍地である吹上町永吉に移す。インターネット社会が実現され「情報としての自分」という基軸が生まれたことが大きい。また「通勤」というライフスタイルが、家庭や地域が壊れ一極集中型社会を加速させた一因だと思っているので「お父さんは昼間から家にいる方がいい」が信条の在宅勤務。現在三人(8、5、3歳の男の子)の子育て中。
21時就寝3時起床という生活スタイルをブログなどで公表していたところ、それが原因なのか別の要因があるのか最近は誰からも飲み会に誘われなくなってしまった(汗)。