スロー・ラーナー
「スロー・ラーナー」
海外文学を読む機会はほとんどないんですが、ジャケ買い(作家にも多少の興味はあります)という感じで、中古で手に入れました。序章だけ飛行機の中で読んだのですが、何度か読み返したくなるような内容が含まれていたんです。「1960年代、文学において対立は、伝統的作品とビートという構図をとった」・・・という部分に始まる記述です。音楽についても語られますし、「アカデミックな壁の外部に見出される多様な生の広がり」という内容もあります。ビートについては、勿論リアルタイムで経験していないので生理的な理解は出来ませんが、自分は様々な場面で、その「影響下にあるもの」から多大な影響を受けてきました。好きな映画や音楽には、どうしても外せない動きとしてビートが常につきまとっています。
ここからは自分の周りの話なんですが・・・鹿児島において伝統的作品と対立する「ビートのような何か」が登場し、対立したことはあるんでしょうか。自分の場合は文学ではなく美術という枠で考えてしまうのでズレるかも知れませんが、鹿児島の美術事情というのは、伝統的作品とそのファンに支えられたままであり、対立軸は(あるのか、ないのか!)ダンマリしたまんまなのかと感じてしまいます。対立、と言っても喧嘩をする訳ではありません。両者が存在することでお互いの価値が高められる訳なんです。自分の願望を俯瞰で見てみると、この「対立する何か」を膨らませたいということになるのではないかと思います。














