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date 2007.9.7
category garden
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友人の「濃すぎる」日記2


昨日に引き続き友人の鹿児島日記を転載します。今回はオーテマ・ハウスのある「吹上町」編です。そういえば・・・明日(8日)午前9時30分からMBCにて放映される「ふるさとワンダフル」が、丁度「伊作商店街」の特集らしいのです。このテキストにある史跡も紹介される予定!!是非ご覧下さい。それにしても、やはり教養のある人が考察するとかなり楽しい場所の様です。「自然がいっぱいある」というのは、ほんとうに薄っぺらな情報である事が良く解ります。
今回も長文ですが・・・どうぞ!
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天文館を離れて後、日置市吹上町に引っ越して8年になる友達の家にご厄介になった。旅行直前に最寄駅の確認をしたところ、JR鹿児島本線の伊集院駅から徒歩2時間半、シータクで3200円というメールの返答に正直なところ戸惑った。想像ができない。鹿児島中央駅からこのまま電車に乗り込んで、指宿なり志布志なり熊本なりへ勝手に進路をとった方が良いのではとも思ったが、既に天文館で会う約束も交わしており、足の状態もグダグダだった事もあり・・・・以後、6日間もお世話になることになる。
はたして私の予想は裏切られ続けた。今の溢れる思いと一緒で書ききれないことだらけである。お宅から直ぐの場所に日本3大砂丘として知られる吹上砂丘、吹上浜がある。大戦中、沖縄に近かった事・飛行隊の前線基地が近かった事もあり、この浜から撃墜された戦闘機や戦死したパイロットがあがったり、アメリカ軍の飛行機による機銃掃射があったようだ。また拉致事件があったりしたようだが、今は本当にきれいで穏やかな砂浜の海岸線が広がっている。少し湿った暖かい海風は東シナ海独特のものだろう。ここは南国である。こうして風に吹かれていると日本にいることを忘れてしまうほどである。天気が良かったこともあり360度、豊かな自然に包まれることへの至福感を満喫すると共にまたあの満員電車に揺られて通勤するのかという思いがかすめゾッとした。夕方ということもあったのか私たち以外の人影はない。細かくデリケートな砂に足をとられつつ、いつまでも渚で貝や石拾いに興じる。この旅行中、南から渡ってくる風に吹かれて、夕日を背負い私は終始はしゃいでいたように思う。ただただ気持ちがいい。気持ちや身体が完全に覚醒した感がある。
この町は史跡の宝庫でもあった。これまた近所に永吉島津家の菩提寺である天昌寺跡がある。永吉島津の歴代当主の墓碑が並んでいる。かの関ヶ原の戦いの際に伯父である維新・義弘公の盾となり烏頭坂にて討ち死にした初代永吉島津家当主家久公の嫡子・豊久公のお墓もある。当時、日向砂土原の領主だったが死後、砂土原は徳川家康に領地を没収され、残った遺臣たちは義弘公に願い出て忠栄公を養子に迎えることで永吉の地を拝領しお家を再興する。もう15年近くも前だろうか叔父と関ヶ原の古戦場廻りの旅行をした時の記憶が甦ってくる。笹尾山、松尾山、小西行長・島津義弘陣跡、森の中にひっそりと佇む大谷行部卿の墓標、有名な島津越えの中、31歳で討ち死にした豊久公のお墓。勇猛果敢な戦士の死に対し尚も手厚く供養を傾ける地域の人々の気持ちに感じいった。資料を見ると15歳の初陣以来、秀吉の九州征伐、小田原征伐、朝鮮征伐、日向での庄内の乱の鎮圧、関ヶ原と戦い漬けの短い一生を送っている。改めて手を合わせてじっと瞑目してみる。ここの墓所も整然と綺麗に掃き清められていた。友人のお母様や自治会の方が清掃にあたられているとの事。廃寺とか寺跡とか言われているが決して廃墟ではない。住民の方の地道な奉仕活動のおかげで長い風雪にも耐えこうして見せて頂けるのである。とても頭が下がる思いがする。この旅を通して何度となくこのような暖かい気持ちになれた。また観光地のように人がいないのか良い。とても都市部では味わえないことだと思う。初代永吉島津家当主家久公のお墓のある梅天寺跡にも行ってきた。吹上の史跡はこれだけに留まらない。今からざっと700年前の鎌倉時代後期に築城され代々、伊作島津家の居城である山城伊作城跡。本丸部分、亀丸城跡の郭(くるわ・建物のあった平らな部分)だけでの敷地だけでもかなりの規模の大きさですが、この本城の周囲4キロに9つの支城があったという。わくわくするほどの大きな規模である。本丸の郭には、素朴ながら、空堀、土塁(こちらでは土居というようですが)が残っており、石積みの段上には日新斎の誕生碑、貴久、義久、義弘、家久、等の近世島津家を担う当主達の誕生碑が並んでいる。城の上からの広がる田園眺望を眺め、風に吹かれつつ、いにしえの時代に思いを馳せてみる。青々と広がる田の面、豊かな鎮守の森林群、虫の声と風の音、もしかしたら昔とそんなに変わらない眺めだったのかもしれないと思ったりした。いつまでも佇んでいたい気持ちになる。太古よりDNAや心の中に宿る私自身の原風景のようなものが過ぎる。懐かしいような心が洗われるような、どこか身体の一部に元々紛れ込んでいたかのような何かしっくりした感覚を覚える。その他、鎌倉時代この地の郡司であった桑波多氏の居城であった山城の南郷城跡、同じく和田八郎親純の居城であった田中城跡、それぞれ天然の要害を利用した素朴で味わいのある出城である。いにしえの雰囲気の残したままの土塁群に兎に角、感激する。まだまだ紹介したい寺跡、神社 等の史跡がこの町に散在する。
旅行者という無責任で卑怯な立場であえてものを言わせてもらえば、この景勝がいつまでも変わらずにここにあり続けて欲しいと切に願う。過疎、町の活性化、交通手段、公共施設、病院、学校 等 様々な問題が山積されていると思う。ホテルや公営競技の場外発券所の誘致の話も聞いた。町の財政の補填には必要なことかもしれないが、素晴らしい自然や景観を損ねることなく最良の方法を模索できればと思う。吹上町で何日間か暮らして感じたことは、我々都市部に暮らす人間は便宜上の為とはいえどれほど多くの自然やその景観を損失してきたことだろう。そればかりではない。自身の健康すら危険にさらすほどの公害を生み出し、極度のストレスを背負い一体何を得たのだろうか。情報、娯楽、仕事、自由、孤独、数え上げても取るに足らないものばかりではないのか。そんなことが嫌で嫌で、引き寄せられるようにこの地に来たのではないのか。最寄駅から2時間半かかる必然性が漸くわかったような気がする。不便などと感じる神経がそもそも病んでいるのかもしれない。外資を入れたり、山を切り開いて観光地化する方法もあるかもしれないが、二度と再び豊かな自然環境へは戻せないと思う。どこぞの偽人工浜の悲しい景観が目に浮かぶ。侵食の進む浜辺にダンプカーで定期的に、砂を撒いて行くコンクリートの器の中の海に愕然とする。豊かさの意味について改めて考えてみる必要が日本人にはあると思う。また地方にこそ無限の可能性があると確信している。再び戻って来たい訪れてみたいと思える風景が一体どれだけこの日本に残っているのだろうか。風光明媚だけでは駄目です。死んだ魂が生き返るようなところでないと。

Comments: 2 comments

  1. テディ

    『風土』を堪能されたようですね。
  2. テディさん→
    地元でここまでディープな散策をしたのは初めてでした。地元の歴史教育を徹底すれば都市部への人口流出も避けられるのではないかと思いました。