あそんでいきます
息子たちが見ているyoutubeの動画で、何度となく「それでは、あそんでいきま〜す」という言葉を聞いた。その多くはゲームの解説。お菓子のパッケージを開ける動画では「開けていきま〜す」という言い回し。こういう動詞って正しい日本語なんだろうか。岡田斗司夫氏が「公の時代」「個の時代」「露の時代」という年代分けをしていたのが記憶にあるけれども、まさに息子たちは「露の時代」ネイティブとして生きている。何か、個人的に遊んでいるのではなく、発表しつつ、世間に晒しつつ・・・というのが大前提になっているかのようだ。もちろん、一人ぼっちで遊ぶこともあるんだけど、その時にも常に露の意識はついて回っていると思われる。このような状況を止めるのは不可能だし、むしろこういう生き方は「未来への準備」なのだと素直に理解すべきだと思う(生理的な言葉の違和感はある)。
この「あそんでいく」という言葉を、強引に自分に結びつけると、仕事における創作活動だったり、地域活動に当てはめることができる。もともと、デザインは秘蔵する目的は少なく、露出していく行為であるから違和感は少ないのだろう。自分が好きなものを閉じ込めておいたり、自分の暮らしを地域に開いていかなかったり・・・そういう積み重ねが多い地域というのは、「持続可能な社会」から遠ざかるんだろうなあ、と思う。














