好き嫌い
日本人の多くは、「好き嫌い」のない大人だと思っている。そのために、街には統一感がなく、見た目が汚い。全てを受け入れてしまう。街並みに限らず、文化の基軸自体も、どうでもよくなってきている。食べ物の好き嫌いはない方がいいのかも知れないが、何でも許容してしまう、というのは果たしてどうなのだろうか。許容、というより、気がついていないのか。僕は「センスがイイ人」と「センスが悪い人」というのは、社会を構成する上で必要だと思う。しかし、「センスを持っていない」人が必要以上に多いと、自由な世の中ではなくなると考える。実際、日本の現状はそうなっている。車、電化製品・・余程、気合いを入れて探さないと、イイ物には巡り逢えない。価値の基軸が揺らいでいるから、どうでもいい、愛着の沸かない製品が氾濫するんだと思う。モノを選べる、という事は社会が豊かになった証の筈だが、日本では実際に「選べなく」なって来ている。以前、村上春樹が「高度に発達した資本主義社会は共産主義と区別がつかない」などと小説の中で述べていた(様な気がする)が、まさにそんな感じだ。何故、電話機の数字は斜体でなければならないのか、気になって仕方がない。下手するとボタン自体も斜めだぞ。斜めはキライなのです。メーカーの殆どが、横並びの「痛み分け」デザインだ。各社の幹部が宴会を開いて「こんな感じでいきましょうや」なんて肩を抱き合っているんだろう。そういう意味で、僕のモノ選びの基準は「個人を感じる事が出来るか」・・・この一点にかかっているのである。
(写真は、センスが悪いものを集めていた時期の、お気に入りの一品です)