ohtematic.com

news

date 2006.11.14
category living
tags
comments closed
RSS RSS 2.0

連載小説・昭和の高校生 第十五回


マティカに戻ると、もう24時を回っていた。マスターがカウンターの奥からカセットデッキを取りだしてきた。お店のシステムには接続されていなかった様だ。言葉を交わすことなく、サイボーグと雪男が手伝いに回り、ケーブルのとりまわしをしている。牧夫は「すみません」と言って、その様子を見守っていた。マスターは再び奥の方へ戻り、今度はケーキを運んできて、カウンターにそっと置いた。その仕草は、まるで子供を抱えるかの様だった。マスターの手つきから牧夫は察していた(良く解らないが多分、自家製だろう)。そして、時間をかけて珈琲を入れてくれた。ほどなくしてカセットデッキのスイッチが入り、VUメーターがオレンジ色に光った。「じゃあ、聴かせてください」牧夫がそう言うと、マスターが「このまま30分、通電する。機械を暖めるためだよ。アンプの灯は、この店を始めて以来消した事がないんだ」と答えた。(そういうものなんだ)と牧夫は不思議に思った。マスター以外の3人は、ひとつのテーブルを囲み、腰掛けた。牧夫はスピーカーの正面の席を与えられた。(これは名誉なことなんだろうな)と牧夫が思っていると、マスターが珈琲とケーキを運んできて、「さあ、ど・う・ぞ」と言って腰掛けた。「いやいやいや・・・いつもすみませんなあ〜」と雪男がつぶやいてから、妙な沈黙が続いた。そんな中で味わう珈琲とケーキだったが、味は格別だ、と牧夫は感じていた。またもや砂糖とクリームを入れる雰囲気ではなかったのだが、牧夫はここで初めて、ブラックコーヒーの美味しさを体験したのだった。流し込まれたコーヒーで、カセットデッキとシンクロするかの様に体も温まっていった。ケーキは固めの焼き上がりだが、不思議なくらいに水分をたっぷりと含んでいた。フルーツの香りと、ちょっとした苦みが交互に牧夫を楽しませた。初めての食感に、牧夫は大人の世界に一歩近づいた気がした。「ところで雑音が体に良くないって、どういう事なんですか」牧夫は3人にぶつけてみた。マスターはコーヒーを飲んでいたが、慌ててソーサーに戻した「いいかい。普段、私たちが接する音は、こうあるべきだ、という補正の基に成り立っている。例えば『Aのようなもの』を、Aとして認識しようと、脳が必死に働くんだ。これは補正だね。みんな音楽をそうやって聴いている。怖いのは、みんながそれに気づいていない事だ。しかし、本当の音の世界では、そういう補正は必要ないんだ・・・AやCが独立し、素直な状態で存在している。その中で私はBの役割を果たす。そして、A-B-Cと繋がっていく。このBこそが純粋な想像力と呼べるものだ。さっき、湖で体験したのは正にそういう事さ。石と自分、湖・・・その関係を想像しただろう。想像力に浸って暮らすんだ。石かもしれない、水かも知れないと思って生きるのは、補正の生活なんだよ。」難しい回答だった。牧夫は「マスターのオーディオでは、それが再現出来るんでしょうか。」と更に質問してみた。「いや、まだまだ発展途上だよ・・・しかし挑戦している。終わりはない。オーディオに時間を費やす事が現実逃避という人もいる。しかし逆だね。私は、現実を捉えたい。リアリティの上でしか、ロマンは存在出来ないんだよ。難しいかな?話し方を変えてみようか。例えば、幼い子供が親に連れ回されて、いろんな場所に行くとしよう。地理や交通の仕組みが解らない子供は、脳の中で独自の世界を作り上げていくんだ。宮沢賢治的にね。子供はいつでも銀河鉄道で旅をしている。これも純粋な想像力だ。もう子供には戻れないが、音の粒子と粒子の間で、私も旅に出ている。毎日だよ。」牧夫にとっては衝撃的な一言であった。マスターが「そろそろ、いいだろう」と暖まったデッキに手を当てた。牧夫は「お願いします」と言ってカセットテープを渡した。そして、マスターがゆっくりとデッキの再生ボタンを押した。

Comments: 7 comments

  1. ゐの字

    湖畔での場面。今回の場面。体験とマスターの言葉によって、感覚を鍛えられる(自ら持つ感覚に気付かされる)牧夫と読者。大寺さんに『小説はかなり向いてる……』と感じました。
  2. mimiうさぎ

    私も、まったりした時間の漂う空間を感じます。
    コーヒーの香り、自家製バウンドケーキ。扉を開けたときのドアベル(鈴)の音が耳に残ってます。
    いよいよ、何らかの答えが出ますね??楽しみ~
    ホント!「小説」はいいです!
  3. ゐの字さん→
    イラストは、1日の出来事を1枚で表現できるけど、小説だと一瞬を延々と引っ張れますね。逆の作業なのではないか?と思いつつ描いています。結末はまだ未定・・・。
    mimiうさぎさん→
    え・・・・まったりしていますか!?このシーンは緊張感を持たせたつもりでしたが・・・ケーキに心を奪われると、違う方向に行きますね。小説、難しいです。
  4. mimiうさぎ

    緊張感・・おじさん達と少年の緊張感って女性見ると可笑しいのかも知れませんね。張り詰めているのでなく、弛んでいるゴムが車輪からはずれない様に回転している緊張感・・かもね。ケーキに心奪われる・・それはありえるかも。。。ケーキの時点で、カセットのこと忘れるのが私だから・・ね。
  5. mimiうさぎさん→
    ガ〜〜ン・・・。そういう事、たまに耳にします。男が気合いを入れて取り組んでいる「何か」に対して「かわいい〜」という意見。これって、何なのでしょうか。
  6. 再度訂正ですいません。
    可愛い・・のでなく、おかしいのほうです。
    可笑しい・・笑いを誘われるようなさま・・広辞苑
    mimi的用語としては、「ぷっ」と噴出してしまう可愛い可笑しさかもね・・
  7. mimiうさぎさん→
    おかしい・・でしたか。いずれにしても、真剣な男の姿が微笑ましく映ってしまうんですね。困りました。