連載小説・昭和の高校生 第十五回
マティカに戻ると、もう24時を回っていた。マスターがカウンターの奥からカセットデッキを取りだしてきた。お店のシステムには接続されていなかった様だ。言葉を交わすことなく、サイボーグと雪男が手伝いに回り、ケーブルのとりまわしをしている。牧夫は「すみません」と言って、その様子を見守っていた。マスターは再び奥の方へ戻り、今度はケーキを運んできて、カウンターにそっと置いた。その仕草は、まるで子供を抱えるかの様だった。マスターの手つきから牧夫は察していた(良く解らないが多分、自家製だろう)。そして、時間をかけて珈琲を入れてくれた。ほどなくしてカセットデッキのスイッチが入り、VUメーターがオレンジ色に光った。「じゃあ、聴かせてください」牧夫がそう言うと、マスターが「このまま30分、通電する。機械を暖めるためだよ。アンプの灯は、この店を始めて以来消した事がないんだ」と答えた。(そういうものなんだ)と牧夫は不思議に思った。マスター以外の3人は、ひとつのテーブルを囲み、腰掛けた。牧夫はスピーカーの正面の席を与えられた。(これは名誉なことなんだろうな)と牧夫が思っていると、マスターが珈琲とケーキを運んできて、「さあ、ど・う・ぞ」と言って腰掛けた。「いやいやいや・・・いつもすみませんなあ〜」と雪男がつぶやいてから、妙な沈黙が続いた。そんな中で味わう珈琲とケーキだったが、味は格別だ、と牧夫は感じていた。またもや砂糖とクリームを入れる雰囲気ではなかったのだが、牧夫はここで初めて、ブラックコーヒーの美味しさを体験したのだった。流し込まれたコーヒーで、カセットデッキとシンクロするかの様に体も温まっていった。ケーキは固めの焼き上がりだが、不思議なくらいに水分をたっぷりと含んでいた。フルーツの香りと、ちょっとした苦みが交互に牧夫を楽しませた。初めての食感に、牧夫は大人の世界に一歩近づいた気がした。「ところで雑音が体に良くないって、どういう事なんですか」牧夫は3人にぶつけてみた。マスターはコーヒーを飲んでいたが、慌ててソーサーに戻した「いいかい。普段、私たちが接する音は、こうあるべきだ、という補正の基に成り立っている。例えば『Aのようなもの』を、Aとして認識しようと、脳が必死に働くんだ。これは補正だね。みんな音楽をそうやって聴いている。怖いのは、みんながそれに気づいていない事だ。しかし、本当の音の世界では、そういう補正は必要ないんだ・・・AやCが独立し、素直な状態で存在している。その中で私はBの役割を果たす。そして、A-B-Cと繋がっていく。このBこそが純粋な想像力と呼べるものだ。さっき、湖で体験したのは正にそういう事さ。石と自分、湖・・・その関係を想像しただろう。想像力に浸って暮らすんだ。石かもしれない、水かも知れないと思って生きるのは、補正の生活なんだよ。」難しい回答だった。牧夫は「マスターのオーディオでは、それが再現出来るんでしょうか。」と更に質問してみた。「いや、まだまだ発展途上だよ・・・しかし挑戦している。終わりはない。オーディオに時間を費やす事が現実逃避という人もいる。しかし逆だね。私は、現実を捉えたい。リアリティの上でしか、ロマンは存在出来ないんだよ。難しいかな?話し方を変えてみようか。例えば、幼い子供が親に連れ回されて、いろんな場所に行くとしよう。地理や交通の仕組みが解らない子供は、脳の中で独自の世界を作り上げていくんだ。宮沢賢治的にね。子供はいつでも銀河鉄道で旅をしている。これも純粋な想像力だ。もう子供には戻れないが、音の粒子と粒子の間で、私も旅に出ている。毎日だよ。」牧夫にとっては衝撃的な一言であった。マスターが「そろそろ、いいだろう」と暖まったデッキに手を当てた。牧夫は「お願いします」と言ってカセットテープを渡した。そして、マスターがゆっくりとデッキの再生ボタンを押した。
ゐの字
2006/11/15 07:22
mimiうさぎ
2006/11/15 22:48
コーヒーの香り、自家製バウンドケーキ。扉を開けたときのドアベル(鈴)の音が耳に残ってます。
いよいよ、何らかの答えが出ますね??楽しみ~
ホント!「小説」はいいです!
マティック
2006/11/16 12:54
イラストは、1日の出来事を1枚で表現できるけど、小説だと一瞬を延々と引っ張れますね。逆の作業なのではないか?と思いつつ描いています。結末はまだ未定・・・。
mimiうさぎさん→
え・・・・まったりしていますか!?このシーンは緊張感を持たせたつもりでしたが・・・ケーキに心を奪われると、違う方向に行きますね。小説、難しいです。
mimiうさぎ
2006/11/16 20:12
マティック
2006/11/21 15:42
ガ〜〜ン・・・。そういう事、たまに耳にします。男が気合いを入れて取り組んでいる「何か」に対して「かわいい〜」という意見。これって、何なのでしょうか。
匿名
2006/11/21 18:07
可愛い・・のでなく、おかしいのほうです。
可笑しい・・笑いを誘われるようなさま・・広辞苑
mimi的用語としては、「ぷっ」と噴出してしまう可愛い可笑しさかもね・・
マティック
2006/11/23 00:12
おかしい・・でしたか。いずれにしても、真剣な男の姿が微笑ましく映ってしまうんですね。困りました。