オーテマ・サツマ事情
この季節、食卓には大・中・小様々な柑橘系フルーツが並びます。鹿児島で暮らしていると、近所の方から頂く機会も多くこんな状態になるのが当たり前になってきます(当たり前と思ってはいけないんですけど)。写真のうち中サイズ2つは自宅敷地とオーテマウンテンで収穫(菜園素人の自分でも、苗木を植えておけば勝手に実る)・・・一般的に美味しいとされているであろう「あま〜い」感じではいのですが、素朴なさっぱりとした味覚です。こういう味って、都会までは届けられないんだろうな、皮も綺麗じゃないし。でも無農薬は保証済みですし美味しさは抜群だと思っています。巨大なボンタンの皮は暑さが一センチくらいあるので、食べ終わった後も皮だけをお風呂に浮かべたりして楽しんでいます。そうえいば、アメリカで「satsuma」と言えばみかんの事を指す、と中原慎一郎さんのコラムで何度か目にしました。先人達が鹿児島発のみかんを広めた歴史を探ってみるのも面白いと思います。
Lavazza
2011/01/06 13:49
たまにですが最近、私も身近で食べられる植物を調べて摘んで調理したりしています。
一度そうすると、風景の中の一員にすぎなかった植物を、次からは食材としても見るようになったりして、その視点の広がりも面白いです。
植物の種類を覚える楽しみもあります。
柑橘類の写真、良い雰囲気で美味しそうですね。
パッと見ると現代的なオブジェにも見えました。
売り物じゃない果物って甘々じゃなくても野性味の美味しさってありますね。
ohtematic
2011/01/07 04:39
Lavazzaさんも家庭菜園をされているんですね。やはり、自分で作ったものは美味しさが違いますよね。オブジェ風に見えるのは、変な並べ方だからですよね〜。以前、何かの本で読んだのですが、いわゆる「肥だめ」が各家庭に存在した時代は、自分と野菜が細胞レベルで共有する要素が大きかったらしいですよね。野菜と人間がひとつのサイクルの中に無理なく収まっているというか。納得できる話でした。現代の日本ではそういう状態を作るのは難しそうですが、これこそ本当の低炭素社会なんですよね。
Lavazza
2011/01/07 09:47
野菜と人が細胞レベルで近い。この事は人間が遠ざかってしまっただけで、きっとすごく自然な事なんでしょうね。
低炭素社会ですぐに思い出すのは江戸時代の庶民たちの暮らしです。すぐに捨てず古くなったら次の使い道を考えて使う。
新しい技術と共にこういう考え方が再び浸透すれば色々な問題が解決出来そうだと思います。
いえいえ、私は集合住宅暮らしでして、地面を使っての家庭菜園という立派なものではないんですよ。
ベランダで小さなものは植えますがハーブやミニトマトなどです。
だからこそ野外で採れる野菜や果物に憧れます。摘んでくるのは土手や公園の隅っこなどからなんです。
土筆、はこべ、ヨモギ、イタドリなど。あと桑の実を採って来てジャムや桑酒など作りましたよ。
果物は友達の家の庭で採れた蜜柑やざくろ、イチチグなど売り物と一味違う美味しさでした。
ohtematic
2011/01/09 08:16
お返事が遅くなってしまいました。かなり、いろいろと実践されていますね。Lavazzaさんの様な感覚の方は、是非田舎暮らしを体験してほしいですね。きっと、いろいろと覚醒すると思います。僕も10年以上が過ぎて、なんだか「当たり前のこと」になりつつありますが、引っ越してきた当初は体がうずく感覚を何度も覚えました。大量のエネルギーと食料が都市部へと運ばれる様になってから、発電所や道路が増えたのであって、本来は東京の方でも、もっとつつましく暮らしていたんだと思います。僕はといえば、せっかく田舎暮らしをしているのに、庭仕事や農作業はしていません。僕もLavazzaさんを見習いたいと思います!
Lavazza
2011/01/09 17:37
ohtematic
2011/01/10 04:57
草むしり、基本ですよね。Lavazzaさんはお得意なのでしょうか。怠っているお庭はすぐに解ります。