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date 2012.1.19
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南日本新聞「南点」を振り返る(07)

南日本新聞「南点」を振り返る(07)

昨年、南日本新聞に掲載された「南点」(全13回)を振り返ってみようと思います。約800字という制限の中で言いたい事が伝わったのかどうか。読み逃した方々へ向けて、全文と補足説明を本ブログで紹介していきます。
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個性という厄介なもの

「思っていることを行動に移す事が出来ない」場面は誰にでもあるだろう。多くの場合「自分という存在そのもの」が壁となって立ちはだかっている。果たして自分はいるのだろうか?
 子供の頃、 手鏡を片手にずっと瞳の奥を見つめていたことがある。自我が芽生えてきて、その不思議さを確かめるために覗き込んでいたのだと思う。あらゆる景色の中で最も特殊な場所だった。そのうちに怖くなって、自分が「いる」のか「いない」のか解らなくなった。高校生になり、私は放課後の殆どをデッサンに費やした。仲間と同じモチーフに対峙して、描き終えた後、ズラッと作品が壁に貼られる。同じ石膏像を描いていても異なる結果が投影される。当然、先生からの講評を受け、他人や参考作品と比較される。そんなある日、指先・鉛筆から紙へと自分の考えを伝える動作そのものが、脳細胞を増やしたり結びつけている様子が解った。以来、画面を通して自分を見つめる日々が訪れることになる。勿論、今でも自分に対する問いは続いている。様々な作風で「自分とはこんなものか?」と敢えて揺さぶりをかける。 しかし時代性や国民性から解放される表現を目指しても、その枠組みを越えるのは難しい。
 ここで重要なのは、受け手側から見た場合「自分を変えよう」と意識して制作した様々な試みの共通項に、自分の個性が宿っているいう事だ。つまり、本当の自分というものはコントロール出来ない領域にいる。スピルバーグらしさは「ジュラシックパーク」と「シンドラーのリスト」に共通する部分と言えば解りやすいだろうか。
 自分など存在しないと強引に決めつけ行動し続けたとき、初めて成果がズラッと並ぶ。具体的な事、抽象的なもの・・・その質はいろいろとあっていいが、量は多い方がいい。それを第三者が俯瞰で捉えたとき、個性というものはようやく浮かび上がってくるのだと考えている。「無私」というのは鹿児島のキーワードでもある。

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追記:全13回の中で最も伝わりづらかったと思われる一編です。専門学校で、授業には出席するけど課題を出さずに聴講だけしている学生が何人もいます。特に表現をする世界では「参加してナンボ」ですので聞いているだけでは殆ど意味がありません。恥ずかしいと思っても、とにかく発表すること。自分も、5年前、下手をすると半年前の作品でさえ恥ずかしくなる事があります。だけどそれは発表したから恥ずかしいのです。恥ずかしさが次のステップへと繋がるんですよね。
(画像は17日に江口浜から見た東シナ海。iPhoneで撮影、色調補正など加工はしていませんが、本当にこんな風景でした。)

Comments: 8 comments

  1. >>ここで重要なのは、受け手側から見た場合「自分を変えよう」と意識して制作した様々な試みの共通項に、自分の個性が宿っているいう事だ。

    ここはホント意識してる人(したことのある人)にしか伝わらないんじゃないか。
    結果的に浮き上がってくる部分だし。こういう意識の持ち方や枠組みを越える難しさへの意識をどう芽生えさせるか、、みたいな課題に今向かい合っているので勉強になります。
  2. いつも楽しく拝見しております。
    オーテマさんのいう「個性という厄介なもの」は,私にとって良く理解できます。
    ついつい,自分はこういう人間だから…みたいな感じで枠組みを作ってしまうことがよくあります。
    上手く説明できないのですが,
    「自分の個性という殻を自分で作らずに,もっといろんな振り幅で挑戦してみることが必要ではないか,その結果が自然と個性になっているものだ。」
    と言うことなのかと私は思いました。
    私は,まだまだたくさんの殻をいつの間にか作ってしまっているのではないかと,改めて考え直す機会になる文章でした。ありがとうございました。
  3. ohtematic

    ptaさん→
    意識している人には伝わりますよねホント!特に、他人の子供でも、僕の事を知っている人はきちんとオオテラ印が解るんですよ〜。不思議なものです。逆に、僕のことに(そんなに)関心のない大人からは「大寺さんこの仕事されましたよね?」という感じで、全く違う作風のイラストを見せられたりする。結局のところ、自分をインクに例えると、社会という海に一滴たらして、どんどん拡散〜透明化していくという様な作業が大切だと思います。そのためには、これまでの様に受注だけに甘んじているのではなく、クライアントを見つけて、どんどん提案していかなくてはいけないのではないかと・・・最近つくづく感じます。
    きはらさん→
    有り難うございます!言いたい事が伝わっていて嬉しいです。結局、自分も抜けきれない部分が沢山あって・・・。どうしても、自分の絵で許せない部分が出て来てしまうことが良くあるんです。それは上手い下手の問題ではないのですが、どうしても抜けられない。これは、習作と呼ばれるものをひたすら描いて克服していくしかないんでしょうけれども。個性を発揮するというよりは、個性を押さえ込む方に興味があるし、他の作家の作品でもそういうタイプが好きです。
  4. どうしても拭いきれない『オレ味(おれみ)』ってありますよね。
    自分はどうしてもそれがイヤでイヤで
    言ってみれば、痛みかけたミカンの味、ぬるいお湯でいれたまずいお茶、
    出来たしばらくは「よく出来てる!」な〜んて思っても
    半年もすると「なんだこのあか抜けなさ!」とイヤ〜な気分になります。
    そのあか抜けなさがいつも同じ「マズイ味」なんですよね『オレ味』ってやつです。
    自分自身の体臭を感じるというか。
    多分、初めて描いたデッサンと仕事でやったデザインは同じオレ味がすると思います。
    ホント、自我ってめんどうですよね!
  5. [追加]
    こねくりまわすほどオレ味(体臭)がきつくなりますね、
    ひどいときは完成した時点からプンプンです。
    ただ、無意識で作業ができた時、こねくりまわしてなにか突破した感じに
    なって自意識が薄れた時とかは、無味無臭に近いです。
    (あくまで自己診断ですけど)
  6. ohtematic

    しばさん→
    「オレ味」、ですね、そうですね。それは消したい個性ですよね確かに。デッサンって、そういう意味では本当に貴重です。癖をとるために絶対必要。そして、この探求には終わりがない。この部分にひっかかりを感じずにずっと活動する人もいるんだろうけど(そっちが多数派)、自分とは違うんですよね。
    [追加]コメントにも、かなり納得です。こねくりこねくり、突破!ですよね。自分がなくなる瞬間といいますか、それは気持ちがいいものです。
    CDどうでしたか?
  7. デザインは言語だと思っていますが、デッサンもまた言語だというのを
    30代半ばにしてやっと気付きました。(遅過ぎた…)
    それにもっと早く気付けばデッサン好きになっていたかな〜〜?

    自分って全然YMOの曲知らないんだ〜ってこと、知りました。
    小学生の収集能力は限りがあるもんな〜
    今聞くと「テクノ」っていうより「セッションバンド」に近い感じは
    理解できます。ちょっとダンスミュージックではない感じ。
    ボーナスのほうも『そっちのほうがすげ〜〜〜』って横隔膜がふわっとしました。
  8. ohtematic

    しば氏→
    いつもコメント有り難うございます。僕もデッサンの正体というのは、解っていません、デッサンによって失われるものもあると思います。実際、今石膏像を6時間で描いたらどんなになるんだろう?と思います。

    YMO・・・正確に言うと「ソロ作とその周辺」のサウンドが殆どだったと思います。フュージョンブームの下敷きがあったから、インストでデビュー出来たとも言われていますね。結局三人ともスタジオミュージシャンだから、おっしゃる通り、今でも多彩で、何でも出来ちゃう。例のアレは「こんにちは、ターザンです。なま肉、喰ってま〜す!」のツカミがいいですね。