母の誕生日(前)
母のことをブログで書くことは滅多にないのですが・・・もしかすると一度もなかったかも知れません。
今日、77歳の誕生日を迎えたので、昨年、母がまとめた戦争体験の手記を転載しようと思います。大同学院二世の会が発行している会報「柳絮」(りゅうじょ)に寄せた記事になります。昨日は終戦記念日、徐々に戦争の記憶が忘れ去られて行く中で貴重な手記だと思います。ちなみに、父は台湾生まれ、母は満州生まれです。文中、差別表現と思われる箇所がありますが、当時の空気をそのまま感じて頂けると思い原文のまま紹介します。ご理解頂きたいと思います。
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終戦と同時に流浪の民となり、野宿をしたり、難民収容所に入れられたり、貨車に詰め込まれたりされて、一年がかりでコロ島に着いた。米国の貨物船58号LSTに乗船してようやく祖国の土を踏むと同時に頭が白くなるまでDDTの粉をかけられた。その強烈な匂いまで思い出す。
私たちが帰ってきた時のためにと、実家を一人で守っていた祖母が、白米のご飯を用意してあった。でも一日だけの夢に終わった。私は小学四年生、弟は一年生、妹は引揚げの途中、三歳で満州の土となった。敗戦の昭和20年7月に生を受けた弟は、まだ首もすわらぬ赤ん坊である。ロスケのマンドリン(銃)の監視の下、母親の乳首にしがみついていた。弟と私はタスキ掛けにしていた飯盒の米や、大豆をかじって命を繋いでいた。アリの行列さながらの哀れな敗戦国民の姿で、あてどもなく広野を歩かされた。日没と共に地べたにくずおれ、日出と共に立ち上がり目的も分からず母親の手を、兄弟の手を必死で握り締め、時にロスケに追い立てられるように歩き出す。それからは無蓋貨車に詰め込まれ、横になることもできず幾日過ぎただろうか。
阿鼻叫喚、地獄絵図さながらであった。命を失した人は情容赦もなく、その動く貨車から投げ捨てられた。時々乱暴に「ガタン」と揺れて止まると、どこからともなく中国人のマントウ売りが現れた。元気な人は貨車から飛び降りて買っていた。コロ島から乗船した時は、いよいよ祖国が近くなったと、うれしい気持ちがしたが、ブリキの食器にドロドロしたかゆ状のものが何日も続き、泣くに泣けない思いをした。ここでも毎日水葬のドラの音が響いていた。「ああ又か。」と、人間らしい感情がなかったようだ。子供ながら艱難辛苦に耐えたものだが、幼少の頃の体験は、良きにつけ悪しきにつけ、本来の性格にないモノの見方が身につくようである。やっと祖国に帰ったが、国内も食糧難、日常品の物不足等々、引揚者には過酷な運命が待っていた。農家ではなかったので母(36歳)は毎日のように買い出しに行き、祖母の着物が一枚二枚と減っていったようだ。少しばかりの米やイモと交換していたのだ。父は四年後、抑留生活から開放され帰ってきたが、結核を患っていた。奥座敷に一人で起居し、母が父の為に精一杯の栄養食を膳にのせて運んでいた。子供は近づけなかった。食器も別々に洗い熱湯消毒をしていた。
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(後)に続く














