母の誕生日(後)
二世の会員になり多くを見聞し、良書の紹介、著名人の講演の内容を「二世の会通信」や「柳絮」等々で勉強させていただいた。多感な頃体験した満州の思い出は、楽しかったことは当たり前であり、今回のテーマである「次の世代に伝えたいこと」として、やはり戦争の悲惨さの方へとペンが向いた。子供にも話したことのないことばかりである、生前の父が、満州のことを聞くと機嫌が悪くなるので禁口となっていたが満州国の為政者としての複雑な思いが去来していたのではないかと今は理解できる気がしている。戦争を知らない世代に体験を伝えるkとは大変難しいことである。でも残された者の務めであり、今は親としての立場から言うならば、思い出のある遺言になると思う。私が父の気持ちを少し分かるまでには年月を要した。同じく、いつか子供たちも分かる時が来る。栗原氏のような若者が顕彰してくださっている。母は子供を守るため早朝から汽車に乗り食糧の買い出しに行くのが日課のようであった。当時は石炭車であったから、真っ黒にすけて、夕方疲労困憊して大きなリュックごと土間に倒れるように仰向けになっていた。私は井戸の水くみや、ごえもん風呂を沸かしたり精一杯手伝った。母の帰る時間には弟を連れて、一刻も早く母に会いたいという思いで近道をして母の姿を探したものである。この頃父はまだソ連にいた。日本が少し落ち着いてきた頃、母の言った忘れられない言葉がある。
「人間は生きるために食べるのではなく、食べるために生きている」と。最後に当時流行していた母の歌声を懐かしみつつ、その歌詞を書いて終わりとする。
1.太郎よ、お前は、よい子供
丈夫で大きく強くなれ
お前がおおきくなる頃は
日本も大きくなっている
おまえは、私を越して行け
2.花子よ、お前は、よい子供
丈夫で綺麗に淑やかに
お前がお嫁に行く頃は
日本も大きくなっている
おまえは、私を越して行け
3.太郎よ花子よ、日本の子
丈夫で大きく強くなれ
みんなが大きくなる頃は
日本も大きくなったいる
子供よ、おとなを越して行け
苦労の多かった母は六十歳で他界した。戦後六十七年、今の日本をどう感じているか聞いてみたい思い切なるものがある、
平成二十四年七月十三日 梅雨最中
大寺順子














