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date 2007.9.23
category garden
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友人の「濃すぎる」日記5


友人の日記、続きます。「友達家族」というのは僕の家族の事ですね。ではどうぞ。
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友達家族と笠沙〜枕崎〜知覧を巡る1泊旅行にでる。道すがら時間は多少前後しますが印象深かった2つのお寺について書きます。
多宝寺跡について。
臨済宗伊集院広済寺の末寺で、仏母山多宝寺として湯之浦西屋敷に創建された寺が伊作島津家4代久義により1390年現在の地に移された伊作島津の菩提寺です。歴代の伊作島津のお墓が有ります。武家政治下では策略もあるとは思いますが恩賞制度により、それぞれの武将、家臣たちは度々移封(統轄領地が変わること)されます。これが歴史を煩雑にしていたりしますが・・行くとわかりますが鳥居がいきなりどーんとあるので、お墓は?と思いますが、左手の小道を山へ向かって上がって行くと古い墓碑群に出会います。このお寺も例に漏れず明治2年の廃仏毀釈により取り壊されてしまったようで跡地に石亀神社というお社を建てたようです。(これがその鳥居です。)
伊作島津氏は、島津氏3代の久経の次男久長(初代伊作島津)に始まります。7代犬安丸が若くして死亡し、跡取りがなかったことで、相州家の久逸(8代)が養子に入り、伊作島津家を継ぎます。しかし久逸の息子の善久も家臣との争いで若くして死に、後に残された善久の妻常盤は、相州家の運久に再婚し、善久と常盤の息子の菊三郎(後の島津忠良)も運久の養子になります。(というより忠良を養嗣子にする約束での婚姻)常盤が相州家の運久と再婚したのも、義父久逸が相州家出身ということもあったようです。伊作島津氏の血筋は実質、犬安丸(7代)で絶え、その後、善久の妻常盤が一時、伊作島津氏を率いますが最終的には相州家が、近世島津氏の血筋ということになります。というのは、伊作島津10代の島津忠良(日新公)の嫡男・貴久は島津薩州家・実久を降伏させ加治木、大隈の国人と戦い平定し、宗家を継承する。他の子供らも垂水島津家、伊集院島津家、砂土原島津家(後の永吉島津家)、加治木島津家、それぞれの石杖を築く存在になるのである。日新公が中興の祖と呼ばれる由縁だと思う。
ここに近世島津氏を支えた重臣・樺山久高(樺山家13代当主1558− 1634年・樺山忠助の次男。樺山善久の孫。)夫妻のお墓もある。封建制度の非常に強かったここ薩摩において歴代藩主と共に葬られていることがどれほど栄誉のあることで、またどれほど薩摩の為に尽くした勇者であったかか伺いしれる。樺山氏は島津氏の一族で、当初島津氏重臣大野忠宗の婿養子となったが忠宗失脚後に離婚し、実家の樺山氏に戻る。その後、兄や甥の早世により樺山氏を継いだ。島津家久の代には家老に任命されて重用された。朝鮮出兵にも参加し、李氏朝鮮の名将・李舜臣の水軍を破るなどの武功を立てた。1609年の琉球征服においても、首里城を落とすなどの武功を立てて、島津氏の琉球支配に貢献した。しかしその後、領地の加増を訴えるも家久には無視され、跡取りの息子にも先立たれて失意の晩年を送った。武芸だけでなく、和歌や蹴鞠にも造詣の深い教養人であったと言われている。文人・工芸研究家としても有名な白州正子はこの薩摩の名門の出自です。
一乗院跡について
この寺のある南さつま市坊津は現在は風光明媚で静かな港町ですが、往時、三津の港として、また文化の渡来地として繁栄を極めたようです。敏達天皇12年(583年)百済の僧日羅が仏教弘布のためこの地に建立した。その末寺は薩摩大隅の国内47ヶ寺,坊津でも18ヶ寺あったという。日羅上人は自ら仏像三体を刻み,上中下の三坊舎を設けてそこに安置した。坊津の名称はこれに由来するようだ。敏達,推古両帝の御願所となり長承2年(1133年)には鳥羽上皇から紀州根来寺の別院,西海の本寺として如意珠山一乗院の勅号を賜り勅願寺となった。 当時は我国有数の格式由緒ある大寺院として全国で有名であったようです。本院は歴代学徳すぐれた名僧知識が多く,42世の住持がつづき朝廷の御帰依はもとより,藩主島津氏にあっては,多くの寺領を寄進し保護につとめた。残念なことに、壮大で格式のある堂塔伽藍も明治2年の廃仏毀釈の時に,多くの宝物とともに崩壊散逸してしまい,今は仁王石像一対(廃仏毀釈は一時捨てられしまった像を土地の人々により現在の地に復元されたようです。)校舎の西方の丘に歴代上人の墓がある。 (仁王像の横の案内板より文章を引用しています。)お寺の跡地にそのまま小学校が建てられたようで、昭和56年の校舎改装時には校舎の位置を変えるなどして遺跡・史跡の全面保存が行われたということです。校内のそこここに遺跡・史跡跡が点在しています。まずこの寺院跡の広大な寺領と現在でもそのことが伺い知れる保存がされていることに感動する。また旅行者に対して全面的に開放していることが本当に素晴らしいことだと思った。この大寺院の往時の偉容や壮大さは校庭のど真ん中に立ったりして始めてわかることだったりします。昨今、学校を舞台に様々な事件が多発しており、都市部では関係者以外の入校に対し必要以上に神経質になっています。そんなことを考えるとこの坊泊小学校の試み、対応、史跡との関わり方には大変感動しました。観光地としてのひとつの模範的なモデルと言ってもいいのではないでしょうか。学校のみの対応でなく町自体の姿勢のように受け取りました。先生方にも親切にご挨拶を頂きました。
この旅行で気持ちが安らぐ瞬間が何度となくあった。お墓・史跡とそれを敬い加護を続ける地域の人々。魂の存在など全く信じない自身の心中や命が軽んじられる昨今、殺伐として自暴自棄になりがちな孤独に灯が燈る思いがした。歴史の転換期に廃仏毀釈という異常事態に接し寺院は破壊されたが、それでも尚、仏教が深く人心に入り込み、今日まで大事に守り敬って保護してきたことにこそ本当の信仰の意味があるように思う。特定の宗教や信仰心を持たない私ですらそのように感じました。
史跡は古いほど良いということでは断じてない。長い年月をかけて人々の信仰の対象として崇められ、手厚く保護され、手入れを受けて大事にされているという姿が美しいのである。それに深く感じいっているのである。その様子はその場の雰囲気で瞬時にしてわかる。人が住んでいる家なのか、それとも人が住まなくなって何年にもなる家なのかといった具合にである。だから廃寺などという言葉は好きではない。依然としてお墓は偉業を称えられ供養を受けつつ、整備されそこにあり続ける。
坂口 安吾の「日本文化私観」の中にこんな一節があります。
「京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。バラックで、結構だ。」かなり乱暴な話ですが良くわかる気がします。もちろん逆説的に書いているわけですが。この旅行で一番強く感じ、確信をもったところである。「仏作って、魂入れず」という言葉がありますが、伝統や建築物はただただ古くから置かれているだけの存在ではないこと。それ自体の意味よりももっと大切な意味があって置かれていること。長い年月をかけ人間の日々の生活や気持ちの中に深く入り込み、関わりを持ち、お互いに共鳴し合ってこそ本当の意味があり、価値があり、信仰がある。また大切に思いやり世話を重ね伝承してゆく者、礼儀を弁え係わった全ての人に感謝の念を持つことこそが史跡の存在理由だと思う。お金を払って現世利益だの幸福だの信心だのと言っているうちは本当の信仰心など芽生えるはずもない。弱い自分がこの世にまともに立脚できずに、何かしらに依存しつつ精神の均等を保つ為に成分の良くわからない薬に金を払い服用し続ける事で安心を買っているといった状態だろうか。人に迷惑はかけていないので何も問題はないでしょうが、私自身は少し違うのではと感じている。自身でのた打ち回った先に人間の本当の可能性が存在しているように強く信じているからだ。

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