友人の「濃すぎる」日記4
友人の日記、更に続きます・・・。最近、大学のレポートをコピー&ペーストで仕上げる輩がいると聞いていますが、ちょっと罪悪感があります。ではどうぞ
***
旅行の行程半分、足首の腫れに悩まされた。歩き過ぎからくる疲労や軽い捻挫くらいに思っていたら皮膚からばい菌が入っているようだと言われて血液検査までした。普通に温泉に入るは、サンダルで城山遊歩道で展望台まで日課のように歩いていたりするはで、我ながらはしゃぎすぎたと反省したが、まだまだ行きたいところだらけである。血液検査の結果を聞きに病院へ行くが数値も良好(ただ足は腫れてますが)だったので日置、吉利方面に連れて行ってもらいました。
鬼丸神社、素朴な鳥居と社への階段が何とも味のある神社である。御祭神はこの地を収めていた禰寝氏(ねじめ)16代右近太夫重長公。重長公は、大隈地方に勢力を振るい、剛勇、才幹の聞こえが高く、良民を愛し徳政を敷いたため、永く領民の尊敬を集めていたようです。御神体は、重長公愛用の鎧一領と神鏡二面であったが、兜は盗難に遭い、現在、鎧のみが黎明館に保管されているとの事です。久多島神社もそうでしたが、本当に素朴なお社で土地の農民、庶民の信仰の対象であったことがとても良く伝わってきます。その後、小松帯刀のお墓のある清浄山園林寺跡(おんりんじ)に行く。建立は室町時代(1417年)と古く17代禰寝重張がこの地に移封された際に小根占(こねじめ・南大隈の旧村名、現在の南大隈町)よりこの地に移したようです。(鬼丸神社もです。)入り口に立つ立派な仁王像がある。(一体だけで、残念ながら首が有りませんが堂々と剛毅で力の漲る立像は、鎌倉時代の仏像のようにも見える。往時の寺領の大きさが偲ばれる。)ここに小松家の菩提寺がある。昔は藩中有数の寺院であったようだが今は、小高い丘の上に吉利の集落を見下ろすように17代禰寝重張以下、歴代領主の墓や経塚、歴代僧の墓、などが点在するのみである。ここも廃仏毀釈で殆どのものを失ってしまったようです。小松家の墓所は西端の崖側にある為かコンクリートで足場を固めてあり、黒い鉄柵で崖側を囲ってあった。
ここに明治維新の功臣、29代小松帯刀のお墓がある。少し彼の話を書く。日置市で作られた素晴らしいパンフレットを少し参考にさせて頂く。1595年にこの吉利郷に領地替えになった禰寝氏は、1734年24代当主・清香は祖先とされる平重盛(清盛の嫡男)が小松内大臣であったことにちなんで小松姓に変える。もともと喜入(現鹿児島市)の領主肝付兼善の三男として1835年に生まれ(幼名 尚五郎、母は島津久貫の娘)、頭脳明晰で幼少より儒学や薩摩琵琶に昼夜を問わずに熱中し、17歳頃より病気がちだった彼を母親が大変心配したというエピソードが残っている。もともと三男であった為、同格以上の家格の家へ養子に行く定めであったようだ。21歳で吉利(現日置市)の領主であった小松家の当主が琉球主張中に亡くなり、藩主島津斉彬公の勧めもあり小松家に養子に入り、小松帯刀清廉と改名する。年表では1855年の20歳の時に江戸勤務を1年間命じられるとあるが、幕末の混乱期に1年間ではあるけれっども江戸で勤務をさせて、ものを見させて見識を広めさせるという殿様の配慮であったようにも思う。若くしてその才覚が斉彬公の目に留まったようだ。以後、島津斉彬公の死後、久光・忠義を補佐しつつ、当番等、側役をへて1862年28歳で家老に命じられ激動の時代、公武合体及び幕政改革〜倒幕、明治維新に尽力する。とても開明的な人で家格があるにもかかわらず、早くから家臣、領民との親睦を深め、領内の問題や改革議題など取り組んだという。また若手下級武士の集まりであった精忠組の面々とも交流し、特に大久保利通を重用し藩政改革を行う。久光の懐刀として長崎出張時には電気・水雷の研修をしたり、海軍操練所が閉鎖され行き場のなくなった坂本竜馬を薩摩藩の大阪藩邸に匿って交友を深め彼の亀山社中(後の海援隊)を援助する見返りに航海技術を学んだようだ。(後に彼は薩摩藩の海軍総帥に就任する。)家老として京都・江戸においては朝廷を中心とする公家や有力な幕閣と交渉を行い、藩財政を支える為に勝手方掛、軍役掛、琉球掛、産物方掛、唐物取締役掛、製薬方掛、蒸気船掛(海軍掛)と藩政全般を司っていたようです。1864年京都、蛤御門の変では久光の名代となり、西郷隆盛と皇居の守備にあたる。幕藩改革時に幕府内で久光要する薩摩藩が指導的立場に立てたのは、小松帯刀の力量であったように思う。1866年、藩論をまとめ上げ、薩摩嫌いの木戸考充を席につかせ坂本竜馬を仲介人に彼の京都二本松にあった私邸(重要な会議は殆どここで行われたようです)で薩長同盟を成立させる。坂本竜馬とは同い年(天保6年生まれ)で、彼らの友情は良く知られている。竜馬がお龍を娶った際の世話役、寺田屋で襲われた際に竜馬が使用した6連発のピストルは小松から贈られたもののようだ。危急を聞きつけ馬で途中まで向かいに出た話しは有名です。二人を伴い薩摩に戻り自身の屋敷に逗留させています。この旅は有名な「日本初の新婚旅行」と言われており、塩浸温泉(しおびたし)や霧島山へ行ったようです。竜馬の作成した大政奉還後の新政府人事には帯刀の名が筆頭にあったようです。自藩以外でも評価の高かったことが伺い知れるエピソードです。翌1867年には薩土同盟(薩摩と土佐藩)を結ぶ。同年 京都二条城会議にて大政奉還、王政復古を成立させる。明治維新後も参与、外国事務掛、総裁局顧問、外交官副知事、御東幸御用などに任ぜられ大久保利通と版籍奉還の画策、藩政改革草案の作成を行うが明治3年7月20日に36歳の若さで病没する。返す返すも惜しい人材の損失である。薩摩人としては弁の立つ人で、外交交渉にたけ、人望も厚く、大変面倒見も良く、決断力・実行力のあった人のように思われる。西郷、大久保をはじめ、竜馬ですら薩摩藩家老であるこの人のバックアップなしでは、時代の表舞台に出てこれなかっただろうと言われている。この人の死により維新後、島津久光と西郷、大久保の関係や薩摩・長州の関係が明らかにギクシャクし出す。仲介役が居なくなってしまうのである。調整上手で誰からも信認されていた彼が生きていれば、その後の薩長閥の独走や国を二分して起きる西南戦争などがもしや回避できたのではと勝手に思ってみる。
歴史は皮肉なものである。全てはボタンの掛け違いの様でもあり、至極当然の成り行きの様でもあり、偶然の連続の様でもあり、人知の及ぶものではないのかもしれない。しかしながら歴史を学ぶ事で、祖先が大切にしてきた風土や信仰、仕来りへの尊敬の気持ちや誇り、危急存亡時に家族や庶民、そして国家の為に死力を尽くして奔走した人々の痕跡を辿ることで、懸命に生きる事の意味や知恵、人間や国土を愛する気持ち、如いては、より良い明日を模索する為のキーワードが隠されているような気がします。現状行われている日本の歴史教育に関しては大変疑問に思うところが多い。長くなるので止めますが。
午前中だというのに強力な太陽の下、墓所を散策する。帯刀の第二夫人になった京都の芸技で、学問にも優れ和歌の道にも秀でた京都祇園の名妓とうたわれた琴仙子のお墓が彼女の遺言通りに墓所の傍らに小さく有りました。本当に可愛いお墓です。病床に臥す帯刀を献身的に看病したと伝えられています。小松帯刀のお墓は、大阪天王寺区夕陽ヶ丘にもあるということです。私はお酒は飲めないので知らなかったのですが、「吹上焼酎 小松帯刀」というお酒があるようです。一度、試飲してみたいですね。シャープでいて懐の深いなんて感じなんでしょうか?
珈琲人
2007/09/25 08:09
幻さん先日 Ohtemaさんと店にいらしたかたですか?
「濃すぎる日記」プリントOUTして読ませてもらっています。
歴史を勉強する事はもっと深い所の自分(家庭人、薩摩人、日本人、コスモポリタンとしての)を知る作業かもしれませんネ。
まずは来年のNHK大河ドラマが「篤姫」ですから薩摩の歴史を知る年にしようかな、とも思っています。
マティック
2007/09/25 10:23
幻さんは、おっしゃる通り一緒にお店に行った方です。あの日は旅の採取日だったのですが、もし初日にパラゴンに出かけていたら、日程がパラゴン中心で大幅に変わったかも・・と言っていました。
歴史は奥が深く、難しいので・・・固有名詞を覚えられなかったりして・・なかなか勉強しづらいのですが、時間をかけて知りたいと思うようになりました。篤姫ブームにも期待しています。