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date 2007.9.19
category garden
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友人の「濃すぎる」日記3


先日紹介した友人の日記、時間軸的には吹上散策の前になるのですが、転載しておきます。
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旅先ではやはり徒歩に限る。その土地の町並み、人々の暮らしぶり、街の持つ息づかい、史跡を取り巻く環境と人々との関係、同じ空気を吸い込む事で考える事より前に感じるられる何かがある。視覚・聴覚・臭覚・皮膚感覚・味覚(空気の味)その全てを研ぎ澄まし不審者のようにうろついてみる。常に地図を片手に携帯しているので、不審者には見えないとはおもいますが、行き先がわからない場合は、誰であろうと聞いてみる。これも旅の楽しみかもしれない。合ってようが間違ってようがどうでも良かったりする。見ず知らずの人とほんの少しでも話ができたり、目的地に近づいていることが確認できさえすればそれで良いのである。気ままな一人旅なので、それこそ目前のベンチで半日寝ていても一向に構わない。しかしながら今回その徒歩がアダとなって足を痛めてしまった。友人夫妻に病院へ連れて行って頂いたりした。年甲斐もなく歩き過ぎてご心配をお掛けしました申し訳有りませんでした。以後、なるべく気を付けるように心がけるつもりですが、、また枕が長引きましたが。
南洲墓地より北側に位置する福昌寺跡という元曹洞宗のお寺で島津第7代当主の元久公によって1394年に開山された島津家の菩提寺がある。これが中々見つからなかった。観光スポットではないせいか道を聞き聞き探し歩いた。廃仏毀釈で壊されてしまったとはいえ南九州屈指の大寺で往時は七堂大伽藍を配した広大な地所を持っていたとものの本で読んでいた。はたしてどでかい鹿児島玉龍中学・高校の裏にひっそりと墓地群のみのかたちで存在していた。先に行っていた磯庭園(仙厳園、島津氏別邸)尚古集成館で購入していた「福昌寺墓地概要」が大変参考になった。陽は少し傾きかかっていたが、寺周辺、墓地の中を概要の略図を見ながら無我夢中で駆けずり回った。かなり広大な墓所であり、幾重にも注ぎ足し造られた墓地と判別しずらい墓碑名などで、慣れるまでに少し時間がかかったが、本当に素晴らしい場所だった。何時間でも略図を片手に色々と思いを馳せていたいと思った。
この寺の開基、6代・元久公から28代斉彬公までの当主、その家族、それぞれの殉死者の供養塔、由緒墓、歴代僧侶の石塔、明治初期に長崎から預けられたキリシタンたちの墓、室町時代からの明治初年までの約450年間の歴史がここにある。現在の中学・高校の敷地を含めた全てが寺領だったとすると何と広大なものであったろうと感嘆する。1350石の寺領と1500人の僧侶が修行をしていたということである。また鹿児島を旅していると廃仏毀釈で破壊された寺の数の多さに驚く。
ここで廃仏毀釈について少し触れる。1868年(明治2年3月)王政復古のもと明治天皇を擁し中央集権国家を急ぐ明治政府は、神道を国家の宗教にするために神仏分離令を発布するが、あくまで神仏の混交を判然とさせる目的だったはずのものが、偏った神道国教的、国粋主義的な立場で仏教を異端視・邪教視する動きが全国に波及する。仏寺・仏像・経巻の破毀、僧尼の資格・地位の制限や禁止。民間信仰の禁止。一時、仏教廃止の流布まで飛び交うほどだったという。今まで何百年、何千年と人々の信仰の対象になっていた場所が一夜にして全て破壊し尽くされたのである。たかだか150年前の話である。日本全国の国宝が1/3になったといわれる。法隆寺の30もあった宝物庫が1つだけになったという。寺院や古文書には火が放たれ、仏像はことごとく破壊し尽される。多くの貴重な仏像、経典は海外、個人、美術館へ流失した。薩摩も当然のように新政府の中心、魁であり徹底した廃仏毀釈が行われた(廃寺院1616寺、還俗した僧侶は約3千人)政府の進めた政策は仏教を廃絶するという事ではなく、幕藩体制の崩壊より天皇中心の中央集権国家の礎を築く為に簡単にいえば、歴史的にも神=皇統という体制をつくりあげるための布石だったように思う。弱年の天皇を擁立し何としても天皇絶対主義的な国家体制を作り上げるというスローガンが発布の目的だったはずである。しかしながら国体神学者や国学者、後期水戸学派、平田篤胤神学派、等の一部の復古神道主義者の狂気的な意見が取り入れられて全国的に常軌を逸した廃仏運動が行われたということはどういうことであろうか。歴史の転換期としての不安定な端境期の中、「尊王攘夷」などの狂信的な幻想思想の元、志士たちが命をかけて奔走するに至るが、廃仏毀釈に関しても同様の狂信思想を感じる。世の中の混乱期に乗じて起こった危険な思想とは思いますが、徳川封建治世に対する民衆の鬱屈した積年の恨み(崩壊して変乱を起こしている事に対しても)が歪んだかたちで噴出したように思う。もちろん佛教界の堕落腐敗や膨大な数の寺院を養う為の藩の経済的負担、寺請制度への民衆の反発なども理由として挙げられる。しかしながら復古思想の廃仏毀釈という時代錯誤な運動も浄土真宗の抵抗や政府の鎮静策、民衆の反発を買い明治4年以降沈静化する。全くもって狂気としか思えない。日本は風土的・民族的にこのような狂気を有しているのかもしれない。一体どれほどの仏像、伽藍、経典、歴史的な宝物を失ったことだろう。眩暈がする。鹿児島各地に点在する首や手足のない、顔の目鼻すら判別できないお寺の仏像を見るたびに心が痛む。上記の事を踏まえると福昌寺跡の久光公の墓に鳥居がある事や照国神社に斉彬公が祀られている理由が良くわかる。(照国神社に行った時、薩摩では殿様が神様になるのか!なんて隣で旅行者らしい兄ちゃんが言ってましたが、、違げーよ!)
墓所を後にする前、墓所内にゴミひとつなく、整然と掃き清められていることに気がついた。廃寺になって150年経つが文化財とはいえ未だに老人クラブの方や玉龍高校の生徒さん達が定期的に清掃奉仕をされているとの事。本当に素晴らしいことだと思う。こういうところから郷土愛や故郷に対しての誇りが生まれると思う。不幸な歴史を背負ってはいるものの、現代を生きる人達が史跡と日々の生活の中で向き合い大切に扱い我々やまた子孫たちに繋いで見せてくれるという姿が何より美しいと思う。郷中制度がこういう部分で生きているのかとも思った。それに鹿児島の町はどこもきれで美しい。
もし寺が残ったとしても、どこぞの金臭い寺のように朱塗りの鉄筋コンクリートの馬鹿でかい本堂が建っているよりはこちらのほうがずっと愛着好感が持て、歴史を感じられるななどと勝手な事を思いつつ、夕闇に包まれた墓所に一礼をし後にした。

Comments: 4 comments

  1. 幻の12日間

    廃仏毀釈が激しく行われた地域では子供の教育や作法が著しく阻害されて他府県に遅れをとることになったという話を本で読んだ事があります。昔は躾や作法、教育に及ぶまでお寺の僧侶が全て行っていたという事でしょう。しかしながら鹿児島は違っていましたね。子供たちは旅行者の私に挨拶をし、どこのお寺跡、お墓に行っても常に綺麗に掃き清められていました。禅宗の禅の心が人々の隅々まで浸透しているという事だと思いました。禅は畏まった宗教思想ではなく、清廉で整粛な何気ない日常の生活のことです。現状の日本では忘れられがちなところというか既に崩壊している部分かもしれないですね。地方にこそ文化が根付いていると、残っている確信しました。
  2. 幻さん→
    鹿児島に越してきて最初に感動したのは、やはり街で「こんにちは」と声をかけられる事でした。うちのあたりでも小学生、お年寄り、みんな声をかけあっています。それが当たり前の事として残っているのは、かけがえのない財産ですよね。
    殿様が神様になる・・と言ったのは僕でしたか?もしかして?
  3. 幻の12日間

    おはようございます。
    違いますよ。ひとりで鹿児島市内を回っている
    時です。照国神社へお参りに行った時ですね。
    隣に居合わせた旅行客のお兄さん2人組みです。
    でも普通そう思うのかなと反省しています。
    いつもは、お墓があるのは寺で鳥居があるのが神社と
    乱暴な言い方をしていますが、神宮寺のような神仏混淆の
    ところも有りますので、以後気を付けますね。
    副昌寺跡のようにお墓の中に鳥居があったりもしますから。
    おもしろいっすね。
  4. 幻さん→
    神社とお寺、僕の様な認識では違いを説明する事は難しいですね。多様な宗教観をうまく風土に馴染ませてきた部分が、日本人のおおらかで、繊細なところだと思っていますが。しかし幻さんの文章を読んでいると、狂気も日本人特有のものだと。日本人は、今でも「怒らせると怖い」あるいは「集団心理で何かをやらかしてしまう」資質を持ち続けているのでしょうか。