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date 2007.9.24
category garden
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友人の「濃すぎる」日記6


友人の日記、続きます。写真は宿泊した「笠沙恵比寿」。九州で一番好きな宿泊施設です。
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その日は友達家族と南さつま市笠沙町野間池にある笠沙恵比寿というホテルに宿泊した。港に隣接したホテルは、決して入り江の美観に負けていないくらいの素晴らしいデザインの建物でした。デザインはJR九州新幹線「つばめ」やJR鹿児島中央駅駅舎、等を手がけられた水戸岡鋭治氏です。部屋数も10部屋と少なく、全室、海に面した天井の高いロフト設計の部屋は快適で大変リラックスできました。この旅行の全工程中の1/3はビジネスホテルで過ごしており今までの旅行でも貪欲に行き先だけに集中してホテルのチョイスなどは考えてもみなかった私にとって初めての経験だったかもしれない。スローライフなどという言葉が浮かんできたりもした。またここへきてあくせく観光スポットを回ることを少し疑問に思う瞬間にもぶつかる。車を出してもらっているのにも係わらず酷い言い草である。すいません。ただ単に疲れていただけかもしれない。折角来たのだからという考え自体に少しづつ疑問が沸いてきた。もっと大切なことを忘れているのではないかと思い始めた。
スローライフなどという何だか実像のはっきりしない幻影のような言葉が慰めのように一人歩きをしている。日々のストレスの反動としてとっても遠い印象のあるその「ゆったりした生活」は我々を嘲笑うかの如く高々と掲げられているばかりである。失業して明日から仕事がなくなったからといってスローライフが自動的に始まるわけではない。常に時間やシステムに追い立てられ、何かに従属させられいるような錯覚から逃れられない。イライラと煽られ、揺れて自爆的にストレスに点火し続ける。自分自身のペースは実際の時間の流れと呼応する事がなく、常に少しずれているようである。いよいよ時間や日付の概念がなくなってくるので、季節感など全くなくなってしまう。今、暑いか寒いかそれだけの生活である。このままで良いわけもなく、そう感じたことにこそが旅の本当の意味であったのかもしれない。旅行という非生産的で悪戯に消耗していく作業にリラックス以外の意味はないのか?生活の反動という名の代償で片付けられてしまっていいのかと思う。生活を離れ、自然の中で呼吸をし、人の温もりに触れることで見えてくる自分の位置・立場。見えていなかった事、通り過ぎて振り返りもしなかった事が詳らかになることで少しでも成長があるような気がする。
夕方、宿よりサンセットクルーズの誘いがあり出かける。何百年間も変わらぬ風景のまま沖合いに夕陽が落ちる。人の出入りの量だけが変わったのかもしれない。穏やかな東シナ海。暖かい風に吹かれながら、ほんの数秒刻みで様々に色を変えていく地平線と次第に黒味を増していく海、その海と同色に染まっていく島々、最後の夕陽が落ちかけた瞬間に美しい赤い光の帯が海や島、雲を縫うようにして放たれる。久しぶりに薄暮に向かい合ったように思う。しかも壮大な海上でである。本当に美しい光景がいまでも甦ってくる。サンセットクルーズなど私の旅行のチョイスには全くなかったので、友人には大変感謝をしている。笠沙の海の幸がふんだんに盛られた夕食(美味しいです)、海水ジャグジーのあるお風呂、隣接した博物館では、笠沙の海の町としての様々な側面が紹介展示されている。本当にサービスが行き届いており、宿泊料金も良心的で気持ちの良いホテルだった。また泊まってみたいと思える数少ないホテルのひとつでもある。連綿と継承されてきているこの辺りの風景が全く変わらず、次世代へも受け渡されることを切に願わずにはいられない。
相当に話しは飛びますが、帰り際、噂に名高い串木野にあるJAZZ喫茶「パラゴン」に立ち寄った。友人に以前より話は聞いていましたが、はたして期待通りのお店でした。
JAZZ喫茶世代と呼ばれる人たちは私たちの1つ上の世代にあたり、私自身もその人たちからJAZZを色々と教わってきた。チャーリーパーカーが解らずしてJAZZを聴くなかれと・・JAZZ喫茶というと気後れするような話ばかりが情報としてインプットされている。もうもうと煙草の煙の立ち込める店内、煙草の脂でベトベトした床・壁・レコード、すえた珈琲、こんなもんリクエストするんかよ・・・何て話ばかりだ。
「パラゴン」に入ったのは食事を終えた後で、夜の9時を回っていたと思う。大変なお客さんの数で、店の廻りの駐車スペースはいっぱいだった。広い店内はパーティ用の個室と喫茶スペースに分かれていてお客さんは20人以上はいた様に思う。清潔できちっと整理された店内の中心にありました・・JBLのスピーカー「パラゴン」。その上にマッキントッシュのセパレートのアンプが乗っていました。スゲー!!ヤベー!!「パラゴン」だよ〜。やっぱ宮大工状態なわけですよ。鎮座ましましているわけですよ。美しい伝統工芸品です。しかもターンテーブルはトーレンスのプレステッジでした。(これか〜!!)お客さんがいっぱい居たことや疲れていた事、私が人見知りな事などからマスターとはお話ができなかったが、マスターの姿勢の良さ、立ち振る舞い、接客、友人からの話などを聞き、お人柄どおりの音がパラゴンから出ていたように思った。端正で分離の良い音のフォルム。肉感的ではあるけれど非常に筋肉質で無駄な音のない中低音(いったいこのスピーカーのどこから低音が出てくるのやら・・?)短時間でしたがJBLやマッキンのイメージが変わってしまいました。名は体を表すという言葉がありますが、オーディオを極めるとこういうことになるのかと深く感銘を受けました。やっぱりセパレート・アンプは良いですね。ジュニアマンス・トリオのLPを回しておられましたが、テンポよく転がるピアノの音の芯が疲れていた身体に優しく負荷をかけてくれて大変心地良かったです。大好きなジッターバグ・ワルツもかかり、何時間聴いていても疲れない感じがありました。少し苦めの珈琲も私の好みで、マスターの作られたチーズ・ケーキを翌日頂きましたが甘さ控えめで大変美味しかったです。お店の隅々にまでマスターの細かい気配りや優しさが行き届いた感じが本当に素晴らしいと思いました。お客さんが多い理由が良くわかりました。今度、鹿児島へ行った時はゆっくりとマスターのお話を伺いつつ、また「パラゴン」堪能させて頂きたく思います。
過疎問題や財源問題、等で地方自治が抱える問題は山積しているが、真摯に生きる人々の姿や生き生きとした表情に幾度も感銘を受ける。都市部よりも個人個人の表情がはっきりと見てとれるような印象があった。皆さんがより以上にシビアな立場にあり、まじめに職務にあたっているという事だろう。史跡や自然や素朴な人々、何と豊かなことだろうと思う。度々いうが地方にこそ未来や可能性があると思う。既に都市部は加速度的に崩壊が始まっている。不必要でただただ人生の時間を浪費し食潰し、実感や実働の伴わない金が大手を振って横行しているに過ぎない。またそういう資本体系が確立されている。個人のスキルや生活などお構いなしで、本当に歯車のように使われ、壊れてしまえば放り出される。虚構の上に虚構が建設され、ひとり歩きを始め、すべてを押し潰していく。人心は荒れ病み、モラルは低下し、自然は破壊され公害が蔓延しているにも関わらず、圧倒的な情報量と物量の前で豊かであると思い込まされ流され続けて行くのである。「東京で死ぬのは御免だ」といった友人がいるが実感として今、私も強く感じている。

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