ohtematic.com

news

date 2009.6.13
category garden
tags
comments closed
RSS RSS 2.0

山口長男を語る日@鹿児島市立美術館


昨日に引き続き、ギャラリーで行われたイベントの記録です。「む展」会期中に行われた「山口長男を語る日」より。パネラーは左から、鹿児島市立美術館学芸係長・山西健夫さん、「山口長男-終わりのないかたち」の著者・池島充さん、画家・児浦純大さん、ナビゲーターの大嵩文雄さん、です。僕はデザイン専攻だったし、世代も違うために接点はありませんでしたが、「む展」の先輩方は直接関わった方が多く、当時の空気が感じられる瑞々しい発言が客席からも相次ぎました。昔の画学生の方達は「きちんと」しています。自分の学校に対する思いの薄さ、だらしなさを実感しました。イベント中に、どこかのテレビ局(すみません、記録し忘れてしまいました)が1980年代に製作した10分ちょっとのビデオが流されたのですが、こちらの内容も興味深いものでした。一部、山口さんの発言をテープ起こしして抜粋します。語り口が独特なので、テキストにすると解りづらいかも知れません。
***
一番の自分にとっての不安は自分の根拠っちゅう事ですね。ですから、何かひとつするについては、そこに原因がまずありますね、だから我々は「習う」という事で自分という原因を大きくして、確かにしていくと。これしかないように思うんですが。やはり、結果的なものからすると弱さがあると思いますね。だから、発展も制限されるんですね。知恵がなくなりゃ、それだとどうにも出来ない。ところが、私の感ずるところは知恵の元。というのは何もないのが最初ですね。そして、体にある訳ですね、知恵は。ですから、それが育っていくと。だから、聞いたものは参考で咀嚼するからなくならなきゃいかん、こなれるとね。その働きが働きとして出て行くというので本人が成長する。その学習は繰り返していくという状態にあると私は思うんです。「この先はどうなるか」と良く聞かれることがある。それが解ってたら今しますよ。大変な模索ですね。これでいいのか。だけど、見て、見えて、自分がするから、そう行うより仕方がない。他の知恵をもたないですから。今は私、見て、眺めて、自分が見たらそれは巨大で、広い還元を習っていくと。こういう態度をして。また広くなるとまた希薄になるから、また、いつでも元を、一本調子で繰り返しているんじゃないかと思うんです。
もう、今、私特別扱いというものは、これはある時の立場によってある時のの分け方というひとつの便法だったと思うんですが、その土台にはやはりその人というものがある筈で。その事を知ってしまったらやはり中心の元を、逆に辿って、丁度歴史を学ぶのと同じですね。この部類の原点ですから。それに触れていくと。そうする事が自分の元を知る事じゃないかと。今、一番発展的に欠けるのはそれじゃないかと思うんです。だから人に「訴えの根拠がない」と「希薄」と。その代わり、まあ知識は非常に豊富ですね。まあ、それに対する実験ですが、奥に対する縦の、根の実験が非常に足りないと思うんですね。それでいいのか悪いのか、これは私は知りませんが、私は自分の性質として、常に根から。根を掘り下げる気で何かを知ろうとする、と同時にそれを外に広げる表現を繰り返したいですね。
***
時代や立場は全く違いますが、僕が現在抱えている悩みと共通する部分が多く、随分と勇気づけられました。
「山口長男-終わりのないかたち」はAmazonでも購入出来る様です。美術館で買い逃した方は是非どうぞ。

Comments: 2 comments

  1. こんにちは 先日、薩摩ビーグルのことでお尋ねしたものです。無事ブリーダーを見つけることができました。お手数をおかけしました。ありがとうございました。
  2. tomoさん→
    よかったですね!お役に立てず申し訳ございませんでした。