ohtematic.com

news

date 2009.8.30
category garden
tags
comments closed
RSS RSS 2.0

都会の光景


遅めのお盆休みという感じで4泊5日を首都圏で過ごしたのですが、普段は鹿児島でみかけない人物たちに出会った。まず、モノレールの中で出会った家族。お父さんが携帯で麻雀をしている。娘と息子は、景色を眺めつつもお父さんが興奮している様子にも反応を示している・・・それなりに会話はあるものの、中心は携帯の画面。また、りんかい線で出会った高校生4人組、こちらはジャージを着ていたので部活の帰りだろう。みんなPSPだかDSの画面を見ながらヘッドフォン。会話はない。更に、マクドナルドで出会ったカップルは2時間もの間、それぞれゲームをしていた・・・通信で対戦しているのか。日本人の多くが、今こうした携帯ゲーム(というのでしょうか)に時間を奪われている。首都圏に行くと良く解る。みんな「暇」だ。不景気と叫ばれてはいるが、おめでたい世の中だと痛感する・・・。こうした人たちは、ゲームに飼い慣らされて自分を見つめる時間を放棄しているとしか思えない。「飼い慣らされている」という言葉が適確だ。僕もゲームはするが、気晴らしという目的なので5分や10分でやめる。時間が勿体ない、やる事が他にある。80年代にゲームが家庭に浸透してきた頃からずっと言っている事なんですが、日本人がゲームに費やす全てのエネルギーを他の何かに転換したいと。宇宙ステーションの二基や三基、すぐにでも建設出来るのでは?
写真は池袋駅に偶然停車していた試運転の新型成田エクスプレス。

Comments: 2 comments

  1. 東浩紀はこのような事態をコジェーヴに倣って動物化と呼んでいます。《アメリカ型消費社会の論理は、50年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。…このかぎりで、私たちの社会は、この数十年間、確実に動物化の道を歩み続けてきたと言える。……私たちの生きる時代とは…、たいていの生理的な欲求を動物的にすみやかに満たすことができる時代である》(東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書)。動物化された時代には〈欲望〉はなく、〈欲求〉だけがあるといいます。〈欲望〉は他者に承認されたいという要望であり、努力を必要としますが、〈欲求〉は他者の承認なしに満たされるため、努力を必要としません。あらゆるものをコンビニエンス化し、消費者を動物化する高度資本主義(消費者が選んでそれをしているのだという幻想は巧妙に確保されています)。「飼い慣らされている」という直感はきわめて正当なものだと思います。
  2. iharaさん→
    iharaさんの論理的な裏付けによって、今回のネタが飛躍的に意味を持ちました。有り難うございます。欲望と欲求の違い、動物化・・・まさしくそうですね。彼らの目を見ていると、人間としては死んでいる、と思わざるを得ません。国家や都市が走らせているプログラムに従う、反抗しない生き物が増えているとも言えますね。少なくとも自然を相手にする限りは、もっとまっとうな生き方が出来ると思うんです。そういう意味で2010年代は、科学技術的な環境問題から、人としてのあり方、自然との共生へとテーマが移っていくものと期待したいですね。