連載・幻想のスロウ・ライフ(5)
03 禁断症状など
甘い話ばかりでは信用されないので、こんなエピソードも紹介しておく。固い決意をしたつもりでも、引っ越して間もない頃は、「都市への禁断症状」とでも呼べるような症状が見られた。
田舎暮らしは決して、楽ではないことを感じ始めたのだろうか。その症状というのは、ベッドに入ってから、都市の夢を良く見たことだった。頭では別れを告げても、肉体で都市感覚を欲している自分が腹立たしくもあった。夢の内容は、田園風景の中に突如として、映画館や喫茶店のある街を発見するというもの。そうした都市感覚は、ちょっとしたきっかけさえあれば、幾度となく自分の前に現れた。変化を求めていたとはいえ、間違った選択をしたのではないかと思った時期。
こんな例もある。自分の家の周りの風景を確かめるために車をあちこちへと走らせた。東京の様に面白い店が次々に現れる訳ではない、興味を惹かれる店は10キロ置きに点在している印象、その他は民家と自然の風景だ。ようやく家から20キロほど離れた街でジャズ喫茶を見つけて入った時に、都市感覚が突如として蘇った。きちんと鳴らし込んだスピーカからお気に入りの音楽が流れた時、何とも言えない気持ちに包まれたのである。田舎暮らしに疑問を感じた時に、勇気を与えてくれた一場面であった。こうした感覚は、住んでいる場所に関係なく呼び起こしたり、浸ったりすることが出来るのだ!
最初の頃は、都市の様な密度のなさに、不安を感じる。実際には別の意味で密度があるのだが。夜、車の音ひとつ聞こえず、シーン、という無音が頭の中で増幅されて、眠りにつけないこともあった。かと思うと、風が強い日には遠くから荒れた波の音が聞こえてきて、不安を加速させる。実際、自分の体調と気象条件が深く結びつく様になっていく。渋谷での生活で、この様な肉体感覚はまったくなくなっていたのだろう。全国ニュースでも取り上げられたのだが、2001年の1月に、家から30分程の海岸に、鯨が13頭も打ち上げられた事があった。実際、現場に出向いて、血のにおいを嗅いだ。決してテレビからは伝わることのない、死の匂い。その頃は、不安定な天気が続いて、僕自身も精神的にかなり参っていた。座礁した原因は様々に伝えられていたが、僕には何の説明も要らなかった。自然の中で生きる事に自分を馴染ませるのはなかなか大変だ。