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date 2006.10.24
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連載小説・昭和の高校生 第十二回


車間距離、停止線までの減速、マスターの運転は実に紳士的だった。見慣れた景色は徐々に姿を消し、街の灯りも少なくなっていった。牧夫は最初、西に向かっていると感じていたが、知らない道を進むうちに土地勘というものが鈍ってきた。車内ではしばらく沈黙が続いていたが、マスターは「私たちは、養殖されようとしているんだ、君もだよ。」と言った。エンジンの音、路面からの振動で室内はお世辞にも静かとは言えなかったが、マスターの台詞は滑舌が良く、はっきりと聞き取ることが出来た。牧夫はその意味を聞こうとしたが、雪男の言葉に阻まれてしまった「そこ、左です」。片側2車線の道から細い路地に曲がると、あたりは更に暗くなった。ヘッドライトで照らされる一部の景色、そして計器類やカーラジオの灯りを除いては、何も見えない。マスター、サイボーグ、雪男の3人は、この場所を何度も訪れていると思われ、その細い路地を何とも感じない様だった。やがて「着いたよ」というマスターの声。エンジンを止めて4人は車から降りた。3月、吐く息は白い。(こんな暗くて静かな場所を体験するのは、いつ以来だろう)砂利道と、枯れた草を踏みしめるのも久しぶりだった。街の暮らしに慣れていた牧夫は、ちょっとしたドライブでこんな場所にたどり着ける事が新鮮だった。駐車した場所から3〜4分ほど歩いた頃、目が暗闇に慣れてきた。湖だ。もしかすると池かも知れない、水面の大きさを測る術はなかった。マスターは指をさして「ここは、日曜日には観光客や釣り人で賑わう場所だ・・・今日の様な夜には、誰もいない」と言った。牧夫は「ここは何処なんですか」と聞きたい気持ちを抑えた。聞いてしまうと、マスター達の計らいに水を差すのではないかと思ったのだ。代わりに「僕は養殖されているんですか」と、先ほど言いたかった台詞をぶつけてみた。「どうかな?・・・この池にも鳥が住み着いている。半分は野生の渡り鳥だが、半分は観光客にエサをおねだりするニセの鳥だ。君はエサをもらっているか?」マスターが答えた。牧夫はしばらく考えたが、言葉の意味が理解できず、マスターの次の台詞を待った。「君の感覚は著しく鈍っている、まだ高校生だと言うのにね。」マスターはそう言ってかがみ込み、足下に転がっている石を拾った。サイボーグと雪男はどこかへ行ってしまった様だ。緊張感が高まる(何が起こるんだろうか)。その時「目を閉じてあの池に向かって、思い切り、投げてみたまえ」と言いながらマスターが牧夫に石を手渡した。(ふう・・あそこまで届くかな)・・牧夫は不安だったが、目を閉じて石をぐっと握りしめた。(半分は丸く、半分は砕けてエッジがところどころにある。)手がその形状を理解しようとしている。(自分の手ではない様だ・・・。)不思議な気持ちだった。深呼吸をした後、体全体で円を描くようなイメージでその石を放り投げた。石は暗闇で弧を描いているのか・・・?確認出来ない。牧夫はその石が水面に落ちる瞬間を期待して、耳を澄ませる。(もうそろそろ・・)想像していた時間はとっくに過ぎた。(駄目でした)とマスターに言おうとしたその時「ポチャン」という音が響いた。驚くほど長い時間に感じられた。ポチャン・・・その僅かな「揺らぎ」が空気を動かし、牧夫の耳元までやってきた。先ほどまで握っていた石と自分との距離が、景色の一部ではなく、固体の様な具体性を持って体に当たってきた。牧夫は集中している自分に驚き、更に耳をそばだててみた。石が緩やかに回転しながら沈んでいく様子が理解出来た。あの「エッジ」と「丸み」が互いの生い立ちを主張するので、素直には沈まないのだ、そうした石のカタチ、水面の温度、波紋の広がり、大気の揺れ、枝と枝〜枯れ草と石が重なって奏でる和音。遠くで車の音がする、笛の音の様なものも聞こえる。全てが牧夫の五感に訴えかけてきた。牧夫は必死にその様子を記憶に刻もうとして「環境」「味わう」となどという言葉を思い浮かべてみた。しかし、それらの理屈は喜びでかき消されて、いつしか体の存在を忘れてしまう状態に陥った。(気持ちが宙を漂っている)この瞬間が永遠に続いても退屈はしない、牧夫はそう思って、静かに目を開いた。

Comments: 6 comments

  1. mimiうさぎ

    大きな声で叫ぶのかと思えば、石「ポチャン・・」だったのですね。一瞬、森田健作なんてヨギリ、あわない!違う!
    3作前から再度読み直してちょっと考えてました。
    この辺りが18歳の女の子の思考方法と、18歳の少年との違いなんですね。夢見る夢子でありながら現実的な女性と、外界に狩?に出かけないといけない強い男が、いきなり水溜りに落ちる。でも本人は沼と思いあがく・・・淀みを楽しむ・・
    「養殖されている・・」家を出て自立する兆し?それとも4月からの生活、区切りつけて脱皮しようとしている?
    これは、男性心理のぐらつきが見え隠れれして・・読む視点変えなくては・・今後も楽しみ・・です。
  2. はーー。
    うまく言えませんが、やりたいこと、もやっとしてたものがここにあった。という感じです。
    うーん。この感じいいですねー。うーん。
  3. テディ

    正しいか判りませんが、
    『古池や蛙飛び込む水の音』みたいな
    読後感がありました。
  4. mimiうさぎさん→
    かなり深読みされている様ですね・・・。確かに男性の視点でしか描いていません。女性の事は良く解らないですから、仕方ないですね。それにしても、淀みを楽しむとは・・・?mimiさんの文章自体が難しくて、僕には理解できないです。
    03Rさん→
    ご無沙汰しております。どの部分で「ここにあった」と感じて頂けたのか・・・。もしかして、03Rさんはオーディオ好きですか?音を文章に置き換えるのって、難しいですね〜。
    テディさん→
    昔の人の方が、音に敏感だった筈なんですよね。生死にかかわる事だから。今は、駄目です。スピーカーの音が割れていても気にならない人を何人か知っています。
  5. 東京にいた頃に自分を追い込むため(未来を期待して)マッキントッシュのMA6500を買ったのですが、本当に追い込まれてしまいました。
    オーディオに詳しいわけでは全くなく、そのほかの機器や部屋の環境ははおもちゃです・・・。いずれ、とは思っていますが。
    なんとなく、こういう音とか肌触りとか「もの」なんかの環境と人とが関係を結べるような空間をつくりたいとは思っているのですが、実際にそれをカタチにしたりイメージしたりまでは行きつけてません。
    その空気感みたいなものが文章というカタチになっていたので感服した次第です。
    「養殖」という言葉にも反応してしまいました。
    都市に飼い慣らされたくはないです。
  6. 03Rさん→
    奇遇ですね・・・僕も自分を追い込む感覚があって、マッキントッシュのMA6800を買いました。10年くらい前かな・・・?今も現役です。やはりオーディオが持っている神秘的な部分って、何かを作っていくときにはとても大切だと思うんです。文章にするのは難しいですけどね。今度、じっくり語りましょう!「養殖」という言葉の意味も、必要以上に察してくれていますね、有り難うございます!